black stratagem
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本当の事を言うと、少しだけ期待してた。メールを送った翌日に彼が直接返事を伝えに来てくれた事とか、その日の内に時間をとってくれた事とか。そんなちょっとした事で、あの噂は私の勘違いなんじゃないかって。だけど――それこそが勘違いだったんだ。遅い時間になるという事は私と会う前に予定があるという事で、それが仕事だとは限らないっていう当たり前の事を、私は考えてもいなかった。

「どうしたんですか?弁慶さん」

一年前に見付けたお気に入りのお店。私はカウンターで食事を済ませ、少し何か飲んで行こうとカクテルを注文したばかりだった。

「いえ。……遅くなってもいけませんし、そろそろ帰りましょうか」

それを振り向いて確かめる勇気なんて無いけれど、後ろで響く彼の声が促すのはきっと彼女なんだろう。素直に従う甘くて可愛らしい声が遠ざかるのを聞いて、もっと強いお酒を頼むんだったと後悔してた。

▼△▼△▼

女性の好む綺麗な色合いの甘いカクテルを一気に飲み干した彼女は、沈んだ表情のまま次のオーダーを口にしようとしていた。それを止めようとは思わなかったけれど、この機会を逃す気も無かった。

「すみません、」

「君、彼女にバースデーカクテルを」

弾けるようにこちらを向いた彼女の顔は、以前より少し大人びていた。その声を聞くのも久し振りだったけれど、慌てて口を開く姿を見るのは何年振りだろう?そんな気持ちをおくびにも出さず、昔のように声をかける。

「久し振りだね、さん」

「嘘……、柚木先輩?!」

さっきのカップルが店を出る前にその男だけが振り向いたのを見て、やっぱり彼女の恋人だったのかと確信したが……。まあ良い。俺は過去に拘るつもりは無いし、こんな日に彼女を一人にして別の女と過ごすような男に遠慮する必要も無いだろう。

「それを飲んだら送って行くよ」

「柚木先輩、どうして……」

尚も尋ねようとする彼女の耳元に小さく囁けば、更に小さな声で答える。そんなところも昔と変わらないままだと思うと、知らず知らずに口の端が上がっていた。お前が誘いを断ったら、それで終わりだと思っていたんだけどね。心の中で、そう呟きながら。

▼△▼△▼

「相変わらず鈍いな。こんな所で、俺がこれ以上話をすると思ってるの?」

耳元で囁かれた言葉は全然甘いものじゃなかったけれど、何だか昔の事を思い出してどぎまぎしてしまった。高校生の時に知り合ったこの先輩。普段は凄く良い人で、どんな先生や生徒に聞いても品行方正とか成績優秀っていう優等生の代名詞みたいな答えしか返って来ない人。だけど……何故か私に対して意地悪な面を見せる、いわゆる二重人格者なのかと思ったほど裏表のある人だったんだ。

「さあどうぞ、お姫様」

ただそれは、純粋な悪意とは違っていて――うん。あの頃先輩が言っていた事を思い出すと、やっぱり少し鼓動が早くなる。お前は俺だけのおもちゃだ、なんて言われた事もあったっけ。先輩が卒業する前に少しだけ付き合っていたような時期もあったけれど、親衛隊とか呼ばれるような人達が居たりして、卒業後には自然消滅って感じで――。

「いつまで黙っているつもりなんだろうね、お前は。聞きたい事があるんじゃないの?」

「き、奇遇ですね。あんな所で柚木先輩に会うなんて思いませんでした」

今の自分の状態を知られたくなくて必要以上に明るく振舞おうとするけど、上手く笑えているのか判らない。先輩は運転しているから、こっちを向かない限りは大丈夫だと思うけど。

「……あそこがどんな店なのか、知らなかったのか?」

「え?えーっと……二十代後半以上に人気のある創作和食のお店で、お酒の種類も豊富で、落ち着いた雰囲気と趣味の良いインテリアが評判で……」

「はあ……もう良い。どうやら肝心な事は知らないようだし。あの店は家の経営している店の一つで、俺がオーナーをしている」

あれから八年も経って大人の男性っていう雰囲気を纏った先輩は、やっぱり人目の無い所では少し意地悪だった。今はハンドルを握る手もあの頃のままに綺麗で、その指が……何だかとても懐かしいと思う。

「あ、そうなんで……って、えええ?!」

「っ、大きな声を出すんじゃない。運転の邪魔だよ」

▼△▼△▼

彼女の自宅近くにあるという駅名を入力したナビゲーションの音声案内は、到着までの時間を約二十分だと告げた。駅までで充分だと言う彼女の言葉を遮って自宅まで送ると言ったのは、何も無用心だからという理由だけじゃない。それでも遠慮している彼女が、それに気付いているとはとても思えないけれど。

「俺の運転が信用出来ないっていうのなら別だけど、今更遠慮する必要も無いだろう?」

「……そうですね。じゃあ、お言葉に甘えて」

それきり口を閉ざした俺を窺っている彼女の様子がおかしくて、つい虐めたくなってしまう。こんな所は昔と変わらないままなんだなと、口元が緩むのが判った。こっちとしても聞きたい事はあるけれど単刀直入に聞くつもりはないし、そこまで不躾な人間じゃない。それに――。

「そ、そういえば……私の誕生日が今日だって事、覚えていてくれたんですね」

こうしていれば彼女は沈黙に耐え切れなくなって話を振って来るという事を、俺はよく知っているから。

「お前の誕生日を忘れる筈が無いだろう?」

そう言った瞬間、彼女はこちらを向いた。きっとその目は驚きに見開かれ、小さく開かれた口は疑問系の一音を象っているんだろう。俺の記憶力はそこまで悪くはないよと続ければ、誤魔化すようにしてそれを肯定する言葉が紡がれる。

そうじゃない。だけど、俺は去年もお前を見ていたなんて絶対に教えてやらない。あの時お前は、同じ場所で同じようにカクテルを注文していた。その表情は浮かないものだったけれど、左手の薬指に光る銀の指輪を指先で撫でながら。それを見てしまった以上、余計な事はするものじゃないと思って……。

「あ、次の交差点を過ぎて少し先です」

目的地付近で音声案内を終了したナビゲーションに代わってこの時間の終点を告げたお前が息を飲んだのは、こちらに歩いてくる人影が街灯に照らされた時だった。

「っ、どうして……」

夜目にも目立つその髪は、彼女以外の女性を優先した男のものに違いない。まさかこんなに早くその時が来るとは思っていなかったけれど、彼女を手に入れたいのなら……この機会を利用しない手は無い。

「どうかしたの?もしかして、あれはお前の恋人?」

車を止めて視線を前に向けたまま、明らかに動揺している彼女に聞く。途切れがちにそうですと呟いた後、言葉に詰まった彼女は俯いてしまった。視界の端でそれを確認して、俺は助手席に目を向け告げる。その顔を上げさせる為に。

「やれやれ、やる気だけで無駄に前向きだったお前はどこに行ってしまったんだろうね?」

一瞬身体を強張らせたお前が拳を握り締めたのは、自分でもそれを理解しているからなんだろう。誕生日という特別な日に一人で過ごしている事も、今年は何も着けられていない指も、恋人との関係が上手く行っていない事を表しているのは明確なんだから。

「俺はお前を慰めたりしないよ。人のものに手を出すようなはしたない真似もしないし、人が捨てたものを拾うほど卑しくもない」

まるで予定調和のように上げられたその顔は、店を出た時とは違って力強さを宿していた。やる気だけはあって、無駄に前向きで。馬鹿みたいに可愛いお前でなけりゃ、俺は要らないんだから。

「俺の言っている意味が解らない?」

「柚木先輩……。どうしてそんな事言うんですか?」

少なくとも、彼女は揺らいでる。今の関係と昔の関係に。そうでなければ俺の誘いを受けなかっただろう。だったら俺は、その背中を押してあげるよ。どちらに堕ちるかはお前次第だけど、昔の俺達のように自然消滅なんて道は選ばせてやらない。

「そんな事も解らないほど、お前は馬鹿だったかい?」

「…………私は、」

▼△▼△▼

久し振りに会ったのにいきなり誘惑めいた事を言う柚木先輩も、弁慶さんも。どうして私の好きになる人は、女性に人気のある人ばかりなんだろう。もしかしたら、私は単にミーハーなだけなんだろうか。少しずつ近付いて来る弁慶さんを見ながら、そんな事を考えてた。

「後はお前が決める事だよ。降りたいのなら降りれば良い」

あの人はどうしたんだろう?なんでここに居るんだろう?もし今弁慶さんに会ったとして、私は何を言えば良いんだろう?ドアロックの解除される音が、まるで最後の審判を下すかのように響く。

私は――。



     

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(壁紙:Kigen/kazuさま)


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橘朋美







FileNo.004_02 2010/10/18