「さん…!」
「弁慶さん……話をしに来てくれたんですか?」
あの店で会ってしまった時、僕は後悔した。何故もっと早く、君と話をしておかなかったのかと。あの後彼女をタクシーに乗せて店に戻れば、君の姿はもう無かった。先ほど店を出たという店員の言葉に慌ててタクシーを捕まえ、アパートまで先回りをして――。頼みの綱と携帯電話に手を伸ばしてみても向こう側では何の反応もせず、淡々としたガイダンスが流れる度に唇を噛み締めていた。
「ええ、遅くなってしまってすみませんでした。僕からも、君に話しておきたい事があるんです」
悲しそうな彼女を見れば、自分のした事が原因なのだろうという思いが胸を締め付ける。今日が何の日なのか判っていて……それでも僕は、彼女を待たせると決めたのだから。たとえどんなに責められようと、非は僕にある。
「――はい。じゃあ、どこか落ち着いて話せるお店に行きましょうか」
沈んだ声でそう言われて、僕の部屋ではいけませんか?と尋ねれば、少し躊躇いながらも頷いてくれた。これから話す事を考えれば、他人の居るような場所ではとても落ち着けない。まして彼女の部屋では、後々都合が悪くなるだろうという事も判っていたから。
▼△▼△▼
気は進まなかったけれど、別れ話を切り出して泣き喚かれでもしたらと心配なのかもしれない。そう思ったら、断る事も出来なかった。私の住んでいるアパートとは病院を挟んで真反対にある弁慶さんのマンションまでは、タクシーで約三十分。ずっと気まずい沈黙に包まれたままエレベーターに乗ると、背中を向けたままのあなたがポツリと呟いた。
「携帯はどうしたんですか?」
「――え?」
一瞬何のことか判らずに聞き返せば、何度か携帯を鳴らしたけれど繋がらなかったと言う。そんな筈は……と携帯を開いてみれば、画面は真っ黒なまま。そういえば、この所あまりバッテリ残量を気にしていなかったような気がする。元々それほど頻繁に使っていなかったし、ここ数年、一番連絡を取るのは弁慶さんだったから。
「ごめんなさい。バッテリが切れてたみたいです」
顔が見えないから弁慶さんの様子は判らないけれど、普段と違うそうですかという一言だけの静かな反応に、胸がチクリと痛んだ。まるで、それだけ私に関心が無くなっているんだと言われているようで。
「どうぞ」
開かれた扉の向こうは、以前来た時と変わらないままの部屋だった。余計な物の置かれていないシンプルで機能的な家具が並んだリビングと、同じようなダイニングキッチン。でも、私は知ってる。書斎には所狭しと専門書が並べられ、様々な資料が寝室にまで幅を利かせている事を。初めてそれを見た時は、これがあの弁慶先生の部屋なのかと驚いた。誰にも内緒ですよと言って微笑んだ彼は今、冷たいくらい無表情なままタイを緩めている。私とは、一度も目を合わせないままで。
「座っていて下さい。今、紅茶を淹れますから」
今はありがとうと言うのが精一杯で、以前のように私が淹れるなんて言えなかった。それどころじゃなく、彼に促されるまでソファに座る事も。ここはもう私が自由に振舞って良い空間じゃないような気がして、居た堪れなかった。
「弁慶さん、あの……」
「すみませんが、先に僕の話を聞いてもらえますか」
早く話を終えて帰りたい。そんな思いからやっとの事で絞り出した言葉は、丁寧だけど断る事を許さないような声音で遮られてしまった。どちらが先でも、結果は変わらない。それなら、弁慶さんの話を聞いた後に出て行けば良い。バッグの中にある小さな鍵を取り出して覚悟を決めた私は、どうぞと答えていた。
▼△▼△▼
彼女とタクシーに乗ってから、僕は考えていた。彼女は何故、あんなに早くアパートに戻ったのだろうと。恐らく今日の事を誤解している彼女が僕に会うだろう場所に戻って来てくれた事に安心して、最初はその事に気付かなかったけれど……。彼女の部屋から病院までは約二十分。その近くにあるあの店までも、それは変わらない筈。でもそれは、車ならの話。以前、徒歩を交えて電車で通うと四十分以上かかると君は零していた。タクシーを使ったのならアパートの前に止まっただろうし、駅まで彼女を迎えに行こうとしていた僕と擦れ違った筈。だけど彼女は、駅の方から歩いて来た。辺りにはタクシーなんて――。
「僕があの店で会っていた人は、」
「知ってます。院長のお孫さんですよね」
それを知っているのなら話は早いと思ったのは間違いで、僕はまだ、彼女が誤解している事を正しく理解していなかった。知っていたんですか?と問えば、自嘲気味な苦笑いと共に彼女の胸の内が明かされて行く。
「嫌でも噂が耳に入りますから。部長の勧めでお見合いしたんですよね」
一体、何故そんな話になっているのか。それを問おうとしても彼女の言葉は止まる事を知らず、今までの僕の行動が、どれほど彼女に不安を与えていたのかを思い知る。仕事が忙しく碌に会う事も出来ず、院内ではそ知らぬ振りを通し、今日という日に他の女性と会う約束を優先した事が、彼女をここまで追い詰めてしまったのだと。
「だからもう良いんです。誰にも話したりませんし、これで終わりにしますから。……さよなら」
「それは――さっき君を送って来た男性を選ぶという事ですか?」
机の上に鍵を置いて立ち上がった彼女の腕を掴めば当然のように拒絶されて、それまで考えていた事が口をついて出てしまう。彼女の姿が見える前に通り過ぎて行ったあの高級車は、僕が確認出来るかどうかの位置に止まって人を降ろしていた。運転していた男性が彼女の知り合いなら……。彼女はバッテリが切れていたと言ったけれど、携帯電話が繋がらなかったのはその所為かもしれないと思うと、どす黒い気持ちが湧き上がって来るのを抑えられない。
「あれは……。柚木先輩とはそんなんじゃありませ、っ?!放して下さい」
「嫌です。この手を放せば、君は僕から離れて行ってしまうんでしょう?」
こんな事をする為にここへ連れて来たわけじゃなかったけれど、僕は弁明するよりも先に君を羽交い絞めにしていた。暴れて逃れようとする手足を押さえ付け、本来の役目を果たし終えていたネクタイで手首を縛り付ける。そして嫌がる君の首筋に顔を埋め、まるで呪詛するように呟く。
「放すつもりはありませんよ、君が僕から離れられないようになるまでは……」
やめて、放して、と。次第に涙声になりながら訴えていた君が大きな声を出したのは、その身体が引き倒された時。それと同時に、僕は根本的な誤解を解かなければいけないという事を漸く思い出していた。
▼△▼△▼
柚木先輩に送ってもらったところを見られていたなんて、と。あの時の会話を思い出して、少しだけ後ろめたい気持ちが湧いて来る。でも先輩は私の気持ちを蔑ろにはしなかったし、ある意味私の決意を固めさせてくれた。それをどうして弁慶さんに……。そう思うと悔しさと悲しさが綯い交ぜになって行く。どれだけ抵抗しようとしても男の人の力には敵わなくて、自由を奪われた身体を捩れば手首がギリギリと締め付けられる。首元で響いている声はまるで私を所有物にしようとしているみたいに聞こえて、唯一自由に動かせる口から吐き出したのは、これ以上無いくらいの拒絶の叫び。
「や……嫌ぁあっ!!もうやめて!抱きたいならあの人を抱けば良いじゃない!!」
相手が弁慶さんだと判っていても、……ううん、弁慶さんだからこそ嫌だった。どうしてなのかは憶測でしかないけれど、あの人とお見合いをして付き合い始めた以上、それは結婚が前提になっているのが当たり前。そんな人がいるのに、こんな風に私を抱こうとする弁慶さんの事が理解出来ない。理解したくない。
「君は……誤解しているんです」
引き倒された身体を組み敷いたまま語り始めた声は、さっきまでの暗さが消えていて……静かに私の耳へ下りて来た。お見合いなんてしていない。あの女性は院長のお孫さんだけど、入職を控えた新米医師でもある。それが弁慶さんにとっての転機になるから、少しでも早くとレクチャーにあたっている。幾ら頭でそれを理解しても、疑う心は消えてくれない。私は、自分にとって都合の良い方へ思い込みたいだけなんじゃないだろうか?本当に誤解だというなら、どうしてあの人と会うのが今日じゃなければいけなかったんだろう?様々な疑問が浮かんでは消えて行く。その答えを出せないまま、私はずっと無言だった。
「僕の言葉は……もう、信用してもらえませんか?」
絞り出すようにそう尋ねた後、悲しそうに名前を呼ばれて。顔ごと背けていた目を上向ければ、私を見下ろしたまま今にも泣き出しそうな弁慶さんが居た。
「お願いです、さん。どうか僕を……」
信じて下さいという言葉と一緒に抱き締められて、やっぱり私はこの人への思いを捨て切れないんだと実感する。そうと知っていてこうしているんだとしたら、弁慶さんは本当に狡い人だと思う。だけど……。そこまで考えているのに、それでも構わないと懐柔されてしまう私は、救いようの無いほどこの人に溺れているのだとも思う。
「……信じます」
やっとの思いで呟くと、私を抱き締めていた身体全体が小さく跳ねるようにピクリと反応した。その時。これでお互い納得出来る。ちゃんと二人の関係をやり直せるんだと私は安心していた。肩口に顔を埋めたままの弁慶さんが、どんな表情をしていたのか気付かないままで。
▼△▼△▼
僕を信じると言った彼女がこれを解いてくれと続けるのを遮って、その身体を離した。そこにはさっきまでの拒絶や恐怖に塗れた所作は無く、それでも不安を拭い切れないままの君が居た。
「すみません、直ぐに戻りますから。少し待っていて下さい」
彼女の目には、申し訳なさそうな顔をした僕が映っている筈。その拘束を解く為の道具を取りに行く振りをして書斎の扉を開けると、視線だけが追って来ているのが感じられる。僕は彼女を安心させるように微笑んで、目的の物を手にする為にキャビネットまで歩いて行った。カーテンの隙間から覗く月明かりだけが頼りの室内。誰に見られる危険性も無い事で、その室内と同じ雰囲気の笑みを浮かべながら。
「どこか痛む所はありますか?」
手ぶらで戻った僕を不思議そうに見詰める彼女を抱き起こしながら尋ねれば、手首が少し痛む以外は平気だと困ったように微笑む。それを見てもう一度謝った後、僕はその唇を奪った。腰と後頭部に回した腕に力を込め、書斎から持ち出し口に含んだそれを、彼女に与える為に。
「っ……あ、んぅ?……っん?!んんっ!!」
これまでに無いほど激しく口付け、漸く彼女がそれを飲み下した事を確認してから。ゆっくりと味わうようにして口唇を食み、その息の荒さが納まるのを待っていた。
「――っは。弁慶さん、一体何を……」
「媚薬と言うほどではありませんが、少々催淫効果のあるものを」
まだ整い切らない呼吸のまま尋ねる君に微笑み、ありのままを答える。すると一瞬目を瞠った後、その頬は驚くほどの速さで色味を増し、唇はしどろもどろに言葉を紡ぐ。その疑問に答えるべく口を開いた僕は、意識的に笑みを深めていた。
「僕は納得出来ないんですよ、さん」
君を追い詰めてしまった事も、君があの男性と二人きりで過ごした事も。たとえ一時の感情とはいえ、君が僕の元を去ろうとした事も。心が君を信じていても、頭が納得してくれないんです。後悔と嫉妬、欲望と焦燥が混ざり合い生み出したもの。僕はそれを、彼女をより強く愛する事で昇華しようと結論付けた。
「だから言ったでしょう?君が僕から離れられないようになるまで……」
▼△▼△▼
君を放すつもりはありませんと言った弁慶さんは、妖しい笑みを更に深めて呟いた。私の耳元に口唇を寄せて、愛していますと。さっき飲まされた薬の事を思うと私はそれどころじゃなくて、いつものように恥ずかしさを我慢して”私も”と答える事すら出来ないでいた。
「べ、弁慶さんっ!その、薬の効果が収まってからじゃ……」
「駄目ですよ。このまま放っておいては辛くなるばかりでしょう?」
ゆっくりと見せ付けるようにしてシャツを脱いだ弁慶さんに目を奪われていると、その手は直ぐに私へと伸ばされた。寝室へ連れて行かれるのだろうと思った身体は後ろから抱きすくめるように座らされて、そのまま肌蹴られた服は縛られた腕を抜けられず、スカートの裾をたくし上げる指先はまるで焦らすようにして太腿を撫で回す。自分がどんどんあられもない姿にされて行くのが恥ずかしくて目を背ければ、くすっと小さく笑われて。そのくすぐったさに息を飲み、思わず肩を竦めていた。
「怖がらないで下さい。君を傷付けるような事はしませんから」
肌に触れるか触れないかという位置で囁かれた言葉は本当だったけれど、私は翌日起き上がる事も出来ないほどの疲労感に悩まされる事になる。それまでに味わった事の無い快感と悦楽を与えられ、朦朧とした意識を手放すまでの彼の行為によって。
▼△▼△▼
それが医師という職業によるものなのか、こんな風に彼女を愛した事は無かった。戯れでその肌に触れる事はあったけれど……。明るい場所、まして寝室以外でその肌を曝す事も、必要以上に刺激を与える事もしなかった。適度な刺激と快楽を与え、過剰な行為は決して行わない。そんな風に彼女を愛する事が当たり前になっていた僕だから。拒絶されてしまうかもしれないと思うと、不安で仕方がなかった。
「まだ怖いですか?」
膝の上に抱き上げた彼女に問うと、小さく横に振られた首。それに合わせて揺れた髪が僕の顔を撫でる。少しくすぐったいと思いながらも白い背中に舌を這わせれば、震えるようにして反応する彼女の息が徐々に荒くなっていった。後ろから回した手で不安定な彼女の身体を支え探るようにして愛撫すると、いつもなら的確に捉えられる筈の胸の頂を掠めた指が、思った以上に刺激を与えてしまったらしい。小さな叫び声を上げた身体が跳ねた直後、強張ってしまう。
「そんなに感じてくれたんですか?」
零れる笑みを抑えられずに尋ねると、彼女は恥ずかしさに顔を俯かせたのだろう。重なる肌から感じられる筋肉の動きは、彼女の動きをつぶさに伝えてくれる。それからの僕は、執拗なまでに愛撫を続けた。どこをどうすれば彼女が悦ぶのか、何年もかけて知った場所を余す所無く。いつもは羞恥から殆ど声を出さない彼女が嬌声を上げ、その身体が何度も緊張と緩和を繰り返すようになるまで。
「っひ、あ……弁慶さっ、や、あ…やぁあっ!!」
それが拒絶を意味するのではなく、快楽に支配され反射で口にされたものだと判っていたから。乱れ狂う君を追い詰め、それでも最後の一線を越える事はしないまま――自らにも拷問を科すような時を重ねて行く。
「っふふ。淫らな君も……綺麗ですよ、さん」
仰け反ったまま達した彼女を横抱きにし、潤んだ瞳を見詰め、半開きになった口唇を指先でなぞる。それだけで物欲しそうな表情を浮かべる様に欲情し、君を欲しいと思う。けれど……小さな声でうわ言のように喘ぐ君は、それを上回るほど嗜虐心をそそるから。汗ばんだ肌に緩慢な動作で、朦朧とした君に思わせ振りな声音で、僕は問う。
「……君は、僕にどうして欲しいですか?」
すると――。まるでその問いが合図だったかのようにして、小刻みに震える唇が意味を成さない一音を繰り返す。だけど、その理性は崩れ切っていない。その証拠に、彼女は決して僕を求める言葉を口にしなかった。それをどれだけ身体が物語っていようと、その目が強請るように僕を見詰めてようと。
「教えて下さい、さん。君が今、僕に何を望むのか」
それは、僕が常に望んでいる事でもある。今この時だけじゃなく、彼女は日頃から我儘を口にしない。……いや。我儘とも呼べないほどの可愛い願い事すら、滅多に口にしなかった。それが僕を気遣っての事だと判っていたからこそ、これまで無理に聞こうとはしなかったけれど……。
「僕はもう、遠慮なんてしません。君を失うくらいなら……君を困らせる事も、泣かせる事も躊躇わない」
揺らいでいた瞳が真っ直ぐに僕を見詰め、震える唇で僕を呼ぶ。戸惑いながらも伸ばされた腕が首に回されて、その羞恥を隠すようにして顔を埋められた胸を震わせる言葉が紡がれてゆく。君が初めて僕を求め、縋り付いたその身体が欲望を駆り立てる。そんな誘惑に僕が勝てる筈も無く――。掻き抱いた君を貪るように愛し、幾度となく貫いた。枯れた声で喘ぐ君が、僕の腕の中で意識を失うまで。
▼△▼△▼
――そして翌日。
「……な、…………弁慶さんの馬鹿ー!!」
次の辞令で医者不足に悩まされている山間の村へ配属されると告げた彼に改めて求婚され、昨夜の痴態に恥らいながらもそれを受け入れた彼女は一つの薬剤シートを見付けた。それを手に彼を問い質した直後、頬を染め上げ彼を罵倒するのだが――。
「馬鹿だなんて……酷いな。僕は少々催淫効果のあるものだと言った筈です。その効果は、君が身を以って知っているでしょう?」
彼女が突き出した偽薬のシートを目にしても、彼は嫣然と微笑むばかり。それはきっと、最愛の女性を己が手にした余裕の笑みとでもいうのだろう。そのまま彼女を宥めるように伸ばされた手の平には、立て爪のリングが収まった小さなケースが乗せられていた。
「本当は、昨夜渡したかったんですが……」
恭しく取り上げた彼女の左手に口付けた彼は、尋ねる事も迷う事も無く、その薬指に指輪を滑らせる。
「――さん、君を愛してます。」
その言葉に彼女の声が返される事は無かったが、それを追求するのは無粋というものだろう。彼女の頬に伝う涙と、彼を求めるように差し伸べられた両の腕を見れば、その返事は歴然としているのだから。

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(壁紙:Kigen/kazuさま)
うはー、豪く長いラストになってしまった。
やっぱ難しいですね、こういう話は。
橘朋美
FileNo.004-03 2010/10/23 |