狡い事だと解っていても、その誘惑に抗えなかった。この数年で不安ばかりが増した弁慶さんとの関係にしがみ付いている自分が嫌で、それを終わらせる覚悟をして彼を呼び出したのが今日。先輩に会ったのが今日だったのも、何かの縁かもしれない。そんな都合の良い考え方をして、近付いて来る彼を見ていた。



black stratagem
side-A



「どうしたの?いい加減どうするのか決めないと。彼に見られてしまってからでは、言い逃れも出来なくなってしまうんじゃないかな?」

俺はそうなる事を望んでいるくせに、少しずつ近付いて来る男の姿を見ながら彼女にそう告げる。けれど、もしもこのまま彼女が決断せずにいるのなら――。俺は無関係を装って、彼女を彼の元へ帰すだろう。自分自身の気持ちを定められないような人間に興味は無いし、そんな人間に付き合って面倒な修羅場に巻き込まれるのも御免だ。勿論、それを彼女に告げるような真似もしない。後の事を考えれば、これ以上の干渉は決してお互いの為にならないから。

「そうですね……。でも、言い逃れするつもりはありませんから」

彼女は暗い道の先に居る男を見据えたまま、静かに答えた。その間にも彼はこちらに近付いて来て――彼女がドアを開けたのは、そろそろ月明かりだけでも車内を確認出来るだろう位置に彼の影が伸びた時だった。

「ありがとうございました、柚木先輩。それと……すみません」

返事を待たずに閉ざされた扉の向こうで、彼女は前だけを見詰めてるんだろう。俺には一瞥もくれずに、決別を決めたのだろう男だけを。けれど、俺は……。彼女が何に対して感謝し、何に対して謝罪していたのか。それを理解出来ずにいた。それがここまで送り届けた事に対しての感謝と、この状況を利用する事に対しての謝罪なら?彼女が巧く人を利用するような人間じゃないと知っていても尚、一抹の不安は残る。焦燥に駆られてドアを開けようとした手を止めたのは、それを俺のプライドが許さなかったから。

「……昔も今も、こんな風に俺を動揺させるのはお前くらいのものだよ」

呟きを拾うものの無い車内で小さく息を吐き、緩く組んだ腕を持て余すようにしてシートに身体を預ける。お前の背中を見詰めながら、早く俺の所へ戻っておいでと心の中でだけ呟いて。

▼△▼△▼

助手席のドアに手を伸ばした私は、もう迷わなかった。薄暗い夜道の向こうで私に気付いた彼が足を速めても、一歩一歩を踏みしめながら彼に近付いて。

さん……、」

「呼び出してすみません、弁慶さん。これを返したかったんです」

手を伸ばせば身体に触れられるという位置で、彼の部屋の合鍵を差し出した。一瞬言葉に詰まった彼の目が、シルバーグレーの高級車に向けられたのが判る。この状況では、どう罵られても仕方がない。私はそう覚悟していたのだけれど、彼は悲しそうに顔を歪めただけだった。

「どうして……。いえ、自業自得という事なんでしょうね」

「…………ごめんなさい」

僅かに触れた指先が、手の平から小さな重みを持ち去っていく。この何年か、ずっと心の奥にあった蟠りと一緒に。私はとても、狡い人間なんだと思う。彼と付き合い始めてから、ずっと……。彼の事が好きだから嫌われたくなくて、それでも一緒に居たくて。忙しい彼の邪魔をしないように、私の存在が彼の妨げにならないようにと、自分の気持ちを抑え続けて来た。少しずつ暗い方へと傾いて行く心を慰めながら、私らしさが失われていくのを恐れていたのに。それに耐え切れなくなった今。悲しげな顔をした彼を見ても、自分の心が軽くなった事にホッとした気持ちの方が勝っているのだから。

「もう行って下さい。僕が……、君を引き止めてしまう前に」

「あ、……さようなら」

ありがとうと返すのは非道い気がして、それでもこれ以上謝るのも違うと思った私は、一言だけ返して彼に背中を向けて歩き出していた。

さん。君を……愛していました」

最後に告げられたのは、消え入るような過去形の言葉。今まで”愛しています”と告げられた時と同じように”私も”と返して足を速める。終わってしまった事を確認するように交わされた言葉に少しだけ胸が痛んだけれど、不思議と涙は出なかった。

▼△▼△▼

彼がこちらに背中を向けた後、俺は車を降りて彼女を待った。ほんの数メートル先にある姿が近付いて、その表情が見えるようになるまで。それに気付いた彼女は困ったように微笑んで、目の前で足を止めると、いきなり頭を下げて――。

「ご迷惑をおかけしました」

俺は、相変わらずだなと苦笑いを浮かべそうになるのを堪える。彼女はまだ俺の手に戻ったわけじゃないんだから、と。心の中で擡げられた欲望を抑え、表向きの顔に意地悪な微笑みを乗せて問いかけた。

「どういたしまして。それで?お前はこれからどうするつもり?」

少し考えたお前が口にしたのは、色々と済ませなければならない事があるから改めてお礼に……という、間の抜けた答え。肝心な所で鈍いという彼女の厄介な性質は、どうやら学生時代から少しも変わっていないらしい。あの店に行けば会えるのかと続けるのを遮って、俺は呆れたように溜息を吐いてみせた。

「俺はそんな事を聞いてるんじゃないよ。まさか……さっき言ったばかりの事を忘れたんじゃないだろうね?」

それに気付いていない振りをしてたわけじゃないらしい彼女は表情を翳らせて、でも……と、小さく呟いた。今まで付き合っていた恋人と別れたばかりだという事に後ろめたさを感じているのか、それとも――俺の手を取る気が無いのか。後者である事を認めたくはないし、その可能性は低いと思うけれど。恋人だった男の存在と八年ものブランクを考えれば、あの頃ほど自信が無いのも確かだった。

「俺はもう、あの頃みたいに待っているだけなんて真似はしないよ。それも全て、お前の気持ち次第だけど」

後夜祭のワルツに誘った時のように恭しく頭を下げ、差し伸ばした手に温もりが下りるのを待つ。これが最後の機会になると思いながら、戸惑っているだろうお前の足元を視界の端に捉えて。そして昔のように俺を呼ぶ声が聞こえた時、視線だけを向けて囁いた。

▼△▼△▼

別れたばかりの彼に後ろめたさを感じなかったわけじゃないけれど、この場で柚木先輩の言葉に甘えたりしたら軽蔑されるんじゃないかと思ってた。自分が都合良く立ち回っている女のような気がして、そんな女を先輩がどう思うかなんて事、聞かなくても判っていたから。でも――。

「お前は、俺を選んだんじゃなかったの?」

近くに居なければ聞き取れないくらいの声で尋ねる先輩の視線に射抜かれて、おずおずと手を差し出していた。その時お辞儀したままの先輩がどんな表情をしているのかは判らなかったけれど、ふわりと羽根が下りるようにして指先に触れた唇が私の不安を消し去って……代わりに緊張感を運んできたみたいだ。

「っ……ゆ、柚木先輩?!」

「――なんだい?慌てて。そんなに心配しなくても、これ以上は何もしないよ。……今はね」

そう言った先輩はやっぱり高校生の頃と同じように意地悪く微笑んでいたけれど、少しだけ――。そこに含まれた感情が昔と違うものだと感じたのは、先輩の目が艶かしさをもっていたからだと思う。その目で見詰められて誘われたら、何も拒めないんじゃないかと思うくらいに。

▼△▼△▼

店を出た時と同じようにして彼女を助手席に座らせ、静かにそのドアを閉める。彼女が自分の元へ戻ったと思うと、ついその感情を顔に出してしまいそうになっている自分が居るけれど……それを抑えて運転席に滑り込む。シリンダーにキーを差し込んでハンドルを手に前方へ目をやっても、もう彼の姿は見えはしない。それでも……それほど幅の広くない路上で何度かハンドルを切り直して、反対方向へと車を走らせた。

「さてと、どこか行きたい所はあるかい?せっかくの誕生日なんだ、少しくらいならお前の我儘を聞いてあげるよ」

「えっ?……あ、っと――そうですね。明日明後日と連休なんで、出来れば静かにお酒が飲める所へ行きたいです」

少し躊躇ったような返事に良いよと答えれば、すみませんと小さく呟いたのが聞こえた。それが何に対する謝罪なのか。今度は見当がついたけれど、それには触れずにオーディオのスイッチを入れようと手を伸ばした。その動作に反応した彼女を少しからかってやろうという悪戯心が湧いたのは、俺にとって極自然な事だ。

「せ、先輩?」

「俺の手に興味があるみたいだったけど、違った?ああ、それとも……興味があるのは俺の行動に、かな?」

前を見詰めたまま小さく笑い、彼女の腕に指を滑らせる。大学を卒業し、事業に身を乗り出して日々を過ごすようになったこの数年。人当たり良く、卒無く振舞う事しか出来なくなっていた。お前と出会うまでは、それが当たり前だったのに……。しどろもどろになっているお前をもっと困らせてやりたいと思う自分が、まだここに居る。こんな事、お前には絶対に教えたりはしないけれど。お前が傍に居なかった時間は――とても退屈で、物足りない気分だったよ。

「さあどうぞ?足元が暗いから気を付けて」

遠慮がちに絡められてた指を離したのは、それから十数分後。使い慣れた地下の駐車場の定位置に車を止め、ここは?と尋ねる彼女をエスコートする。頭の片隅でそれを少しだけ滑稽だと思っている事は否定出来ないけれど、漸く彼女を手にする事が出来るという喜びに比べれば、それもちっぽけな気持ちだった。

「お邪魔します……」

仕事に都合が良いようにという理由で借りたこの部屋に人が来るのは珍しく、それが年頃の女性ともなれば妹の雅以外では彼女が初めてだ。落ち着かない様子で立ち尽くす姿に声をかけ、ネクタイを解きながら冷蔵庫の中に並んだ幾つかのボトルに目を走らせる。

――残念ながら彼女が店で飲んでいたような可愛らしいカクテルは無いのだけれど――

深い藍色をした発泡清酒のビンを手に取り、小さなグラスに注いでいく。きめ細かな泡が広がっていく様子はまるでジュースのようで、フルーティーな香りと甘い飲み口は女性受けするだろうという業者の売り文句は間違いじゃなかったらしい。始めは二本だったビンが三本四本と増えていったのが、いい証拠だ。とはいえ……。

「飲み易いからといってあまり調子に乗ってると――帰れなくなるよ?」

既に酔っている所為だろう潤んだ目を見詰めて微笑めば、彼女はその意を汲んだのか。薄く染まった頬をそのままに、こちらへ真剣な眼差しを向けた。

▼△▼△▼

そんなに強いわけでも無いお酒を何杯も飲んで酔ってしまったのは、緊張していた所為だと思う。先輩の家へ行った事は何度かあったけれど……。それは高校生の時に先輩の家族が暮らしている家へだったし、勉強を見てもらうっていう目的があったからで。今みたいな状況とは、全然違っていたから。

「先輩、私……からかわれてるんですか?」

すっかり酔いの回っていた私は思わずそう聞いてしまったけど、本気でからかわれてると思っていたわけじゃなくて。何も出来ないまま終わってしまった恋人同士という関係が、何年も経って叶おうとしているこの状況が、夢みたいで不安だったから。でも、一瞬不思議そうな顔をした先輩は――その言葉も微笑みも少し意地悪だったけれど――直ぐにその不安を拭い去ってくれた。

「残念だけど……。この年になって不真面目な付き合いをしていられるほど、俺は暇じゃないよ。お前がそれを信じられないって言うなら、――そうだな……信じられるようにしてあげるけど?」

……またあの目だ。テーブル越しに取られた手をどうする事も出来ずに見詰め返す。その時自分がどんな顔をしているのかなんて確かめようが無かったけれど、きっと変な顔をしていたんじゃないかな?意地悪そうに、でも満足げに笑う先輩がいたから。

▼△▼△▼

バスルームから戻った俺の目に入ったのは、さっきと変わらず赤い顔のままの彼女だった。空になったビンの数は増えていなかったし、ミネラルウォーターのボトルは目減りしている。泥酔していたわけでもないのに?と、不思議に思いながら近付けば、潤んだ瞳で見上げられて……。

「そんな目で見詰めるんじゃないよ。もしかして、俺を誘ってるの?」

いつものように笑ってみせたつもりでも、俺は今、上手く笑えているんだろうか?早くなった鼓動が頬に添えた手を伝っているんじゃないだろうか?そんな疑問が胸に湧く。このまま彼女を押し倒してしまいたい、という気持ちと一緒に。それを抑えて彼女にシャワーを勧めたのは、酔った勢いに流されて欲しくは無かったから。たとえ関係を持ったとしても、彼女の心が付いて来なければ意味は無い。後々、虚しい気持ちになるだけだ。そんな思いとは裏腹に、前々から手に入れたいと願っていたものを手に入れて何が悪い?というエゴもあったけれど。そんな葛藤も、数十分後には綺麗に消えてしまっていた。残っていたのは、愛する女が欲しいという思いだけ。

「おいで?」

バスローブ一枚で突っ立っている彼女の手を引けば、容易く腕の中に倒れ込む。あっという小さな声と軽く軋んだスプリングの音がした時には、彼女を組み敷いていた。――どこか不安そうに見上げる様子に疑問が湧いたけれど、追求する気にはなれなくて――上気した肌を曝すように手を滑らせれば、彼女はきつく瞼を閉じてシーツを握り締める。その姿が、まるで拒否反応のようで……。

「……俺にこういう事をされるのは、嫌だった?」

大学卒業後に引き合わされた婚約者候補の一人を思い出していた。温室育ちのお嬢様は生身の男を受け入れられず、その話はなかった事になり、俺はそれを理由に全ての見合いを断った。しつこく持ち掛けられた相手にはその手の事に頓着しない女も居たけれど、それは柚木という家と見栄えの良い結婚相手に釣られただけで、短くてつまらない付き合いで終わった。まさか彼女まで?という思いが頭の中を駆け巡って、慌てて謝る彼女へ向けた視線は酷く冷たいものになっていたんだろう。恐る恐る話し始めたその内容は決して聞きたいものではなかったけれど……。少なくとも、誤解を解くには役立った。

短大卒業後に就職し、それから間も無く彼と付き合い始めた彼女は男性経験が少なく、ここ数年は肌に触れられる事も無かった。それが女性としての魅力に乏しく、俺に嫌われる理由になるのではないかと言うのだから――思わず溜息を吐いてしまう。 

「……まったく。お前は本当に馬鹿だね、何を今更」

どこに魅力を感じるかは人それぞれで、今こうして俺の腕の中に居るお前は充分に魅力的だっていうのに。唇から首筋へ、そして鎖骨をなぞって胸元に。軽く吸い上げ花びらを散らすようにして跡を付けていけば、その度に息を飲んで恥じらいの声を上げる。それが艶めいたものに変わったのは、胸の先端に口付けた時だった。

「今のお前は充分に魅力的だったと思うけど?」

顔を上げてからかうようにして微笑めば、羞恥に頬を染め上げて横を向いてしまうような子供染みた所も……可愛いものだと思う。これからは、ずっとこうして俺の腕の中でだけ可愛い女でいれば良い。そうなるようにと思いを込めて指を滑らせ、舌を這わせていく。少しずつ、丹念にその肌を愛でるようにして。

「はぁ……っん、先輩」

焦れた身体をくねらせて零されたその声に、僅かな不満が首を擡げた。些細な事ではあるけれど、このままというのには異議があるから。腰には唇の代わりに指を残し、耳元で囁いた。

「恋人を呼ぶのに”先輩”だなんて冷たいな。ちゃんと俺だと判るように呼んでごらん?」

「あ、はっ……?ゆの、きゃぁっ!」

クレバスに滑り込ませた指は硬い蕾を容易に見付け、不正解の答えに軽く爪弾く。敏感な箇所に強過ぎる刺激を与えられた彼女は涙目で息を荒くしてこちらを見るけれど、お仕置きだよと微笑んで。

「ほら、もう一度。呼んでごらん?」

「梓馬せんぱ、あぁっ!……は、ぁ。どうして?せんぱ、ゃあんっ!!」

立て続けに声を上げ、身体を仰け反らせた彼女の耳朶に触れたままの唇を動かせば、またピクリと小さく震える。こんな反応を愉しむのも悪くはないのだろうけれど、あまり堪えているのも辛かった。

「お前はいつまで俺を先輩と呼ぶつもりなんだろうね、?」

酔っていた時のようにとろんとした眼差しは熱を帯び、強請るように伸ばされた腕に捉えられた首筋に、甘い吐息がかかる。

「梓馬さ、……っん、あ。……ぁ、あっ」

「良く出来ました。愛してるよ、

丸い肩を抱き、括れた腰を支え、ゆるゆると焦らすように彼女を愛する。俺がそれをどれだけ望んでいたか、お前は知らない。あの頃も、今も。

「こうして……俺の腕の中に居る時だけは、幾らでも甘い時間をあげる」

跳ねる身体と絡み付く肢体に浮かされて自制を失いそうになりながらもそう告げれば、吐息の合間に俺を呼ぶ声がして。その声をもっと聞きたいと望んだ俺は、彼女が絶頂に達しようとする度に動きを止め、その切なそうな表情に優しく微笑んだ。懇願するように俺を呼ぶ彼女が愛しくて、眦に浮かんだ涙に口付けながら、何度も何度も――。

▼△▼△▼

翌日の午後、彼女は彼の行動に驚きを隠せずに居た。仕事を済ませて来ると出かけた彼は、戻るなり彼女の両親に会わせろと言って車を出したのだ。そして、昨日の今日で?と慌てる彼女に、彼は平然と言い放つ。

「この年になって不真面目な付き合いをしていられるほど、俺は暇じゃないと言っただろう?」

俺の家へは明日来れば良いからと続けられ、彼女の焦りは更に増すのだが……。それも恐らく問題は無いだろう。二人の家柄を考えれば幾らか辛酸を舐める事に違いないとはいえ、彼の腕の中に戻れば、彼女には、この上なく甘いご褒美が与えられるのだから。





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(壁紙:Kigen/kazuさま)

初の混合にしてパラレルで選択という設定になったこの短編、如何でしたでしょう?
因みに作中にある発泡清酒のイメージは1本200mlの物です。
あー、R指定にしたのは単に成り行き上だったりします。書いている内に、つい…ね。それに以前は年齢制限コンテンツを作れないサーバーを借りていたのでキチンと書いた事は無かったんですが、機会があれば書いてみたいと思っていたんですよね〜。でもまあ、今回かなり難しいという事を学習しました。が、また懲りずに書くかもしれません。





橘朋美







FileNo.004_04 2010/11/27