将来を誓い合うまでの関係にあった彼を信じ切れなかった。だからといって、昔の彼に甘える事が許されるとも思えなかった。結局どちらの胸に飛び込む事も出来ず、どちらからも逃げたんだ。



black stratagem
END



車から降りた私は、弁慶さんに見付からないよう駅へ向かった。そのまま近場のビジネスホテルに入って主任に連絡し、仕事を辞めると話して……。手続きの為に一度だけ出勤しなければいけないと言われた日には外科の手術日である曜日を選んで、その帰りに彼のマンションへ寄って合鍵を返して来た。暗証番号を知らない鍵付きの郵便受けに落ちた小さな紙袋の音がやけに耳障りで、逃げるようにしてその場を後にした事を覚えてる。携帯電話に表示される不在着信の件数は日に日に減って行き、それを少し淋しいと感じる身勝手さにも慣れた頃。新しい勤め先に通うには少し不便だからという表向きの理由で両親を納得させ、アパートを引き払った。

柚木先輩とは、あれ以来何の接点も無い。あの店だけじゃなく系列店にも足を運ばないようにとネットを使って調べた結果なのだから、当然といえば当然の事だ。先輩は、あの時何も言わずに車を降りた私を探したりするほど執着していないだろうし、私の携帯番号や住んでいる場所すら知らなかったのだから。……きっと、もう二度と会う事も無いと思う。

▼△▼△▼

「あ、ちゃん!俺んトコ、食後にブレンド一つ頼むよ」

「はーい!食後にブレンドお一つですね、かしこまりました」

あれからまた一年が過ぎようとしている。新しい仕事先にも慣れ、くるくると独楽鼠のように働く楽しさを覚えた。まだ彼の事を完全に忘れる事は出来ないけれど……。思い出す回数も、その時に胸が痛む事も随分減った。きっと、何年か過ぎた頃には思い出す事も難しくなるんだろう。一日で一番賑わうランチタイムにふと頭を掠めたそんな思いも、オーダーを一つ受けた事で四散してしまうのだから。

「さ〜てと。オレは明日の仕込みに移るから、後は任せちゃって良いかな?」

「はい。じゃあ、お客さんが居ない内に表を片付けて来ますね」

夜八時。閉店一時間前にマスターと交わすこの会話も、今では一日の締め括りの合図のように感じられるようになった。始めの頃はメニューを覚えるのに苦労したり、レジの扱い方が判らなくて迷惑をかけたりしていたけれど、徐々に飲み物の淹れ方や軽食の作り方を教わって、少しずつお店の切り回し方を覚えて。マスターにはまだまだ修行が必要だよって言われてしまったけど、将来はこんなお店を開くのも良いかもしれないっていう夢も出来た。

「うん、お掃除終わり。あとは看板の電気を切って……あ」

その前にシャッターを半分閉めておかなければいけないと思い出した私は、慌てて店内の制御盤へと駆け出していた。――お店の暗がりで、こちらの様子を窺っている人にも気付かないまま。

▼△▼△▼

「……それでさ、君の事良いな〜って思ってたんだ」

後は看板の電源を切って三十分もすれば閉店というその時に、私はマスターから告白されていた。制御盤を操作していた時に厨房からひょっこり顔を覗かせた彼は、どうやら本気で言っているらしい。私より少し年上で、優しくて誠実な人だと思う。以前は少し頼りなく思えた言動も、一緒に仕事を続けている間に相手を傷付けたくないからこそのものだと知った。だけど――私は彼を、男性として意識していない。そう告げる事も出来ず、彼を見詰め返す事が出来なくなった私の顔は次第に俯いていった。

「ねえ、ちゃん。オレの恋人になってくれないかな?」

「すみません、そのお話は無かった事にしてもらえませんか?せめて、僕が彼女の返事を聞くまで」

どうしたらマスターを傷付けずに断れるんだろうと考えていた私の耳に飛び込んできたのは、懐かしい彼の声。どうしてここに?と聞く事も、俯いたままの顔を上げる事も出来ずに立ち尽くしていた。マスターは一体何事なのかと驚いた顔で彼と私を交互に見ているみたいだけれど、彼はそれを意に介さず私へと近付いて――。

「やっと見付けた……」

答えを聞かせてくれと囁く彼の腕の中で、ただ涙を零していた。忘れたくても忘れられなかった彼が、今ここに居る。あの時逃げ出してしまった私を諦められずに探し続け、迎えに来たのだと言う。返事をしたくても嗚咽に邪魔されて頷く事しか出来ない私を、彼は小さく笑った後で強く抱き締めてくれた。

▼△▼△▼

誤魔化すように笑って身を引いたマスターに詫びた彼女達が店を後にしたのは、九時になる少し前の事だった。彼の運転する車に乗せられた彼女は今日の幸せと明日の希望に包まれ、静かに微笑んでいる。今年こそ彼女の誕生日を祝わなければと口にする彼が愛しく、そんな彼に愛されている事が嬉しいのだろう。

己が彼の策略に落ちたなどと、そんな彼女が知る由も無い。

車窓を流れていくテールランプの群れと共に映り込んだ、彼のほの暗い微笑に気付く事も無いまま――。だが、彼女はそれでも幸せなのだろう。これから先は己の愛した男の手に堕ち、翻弄されるほどに愛される日々が待っているのだから。





************************************************************

(壁紙:Kigen/kazuさま)

書き進めている内に全年齢対象のラストも必要かと思い、急遽五話編成に仕上げました。
迎えに来た彼がどちらなのかは、これを読んだあなた次第という事で。

割とどうでもいい事ですが、弁慶と柚木は同い年でさんはその一つ下の学年です。
弁慶は早生まれですから2節目までは25才の可能性が高く、柚木は26才の可能性が高いワケですね。
ただ、この話は主人公の誕生日に焦点を置いてあるので、場合によっては弁慶が26才だったり柚木が25才だったりする場合もあるという……ホントどうでもいいような設定になってます。
因みに、振られマスターは景時モデルだったり…貧乏くじですな。





橘朋美







FileNo.004_05 2010/10/22