「さん、大丈夫?」
始業式が終わって、だんだん教室が騒がしくなって行く。倉庫から運んで来た新しい机に肘を着いてぼうっとしていたら、明璃に声をかけられた。顔を上げれば駿斗とトーマも一緒に居る。あれ以来、挨拶くらいしか交わさなくなってしまった彼等だ。大変だったね。あんまり気にすんな。と言われても、何て返せば良いのか判らなくて……無難な答えを口にした。
「ええ、大丈夫よ。ありがとう」
だけどその途端、周囲の反応が彼等にも向けられる。ああ、そうか。軽率な行動だったかもしれない。噂は恐いものだ。本人だけじゃなく近しい人間を巻き込んで、傷付け、追い詰める。あの時のように。
「でも余計なお世話。これ以上、不名誉な噂を流されるのは御免だわ」
にっこり笑って、残酷な言葉を吐く。驚いた明璃が、困惑した駿斗が、怒ったトーマが問い掛けても平然と。
「どうもこうも無いでしょう?言った通りの意味よ」
怒鳴ったトーマに続いたのは、明璃や駿斗じゃなかった。心配してくれた相手に向かって非道い態度だ。嫌がらせ受けるのも当然だ、と非難する。それは、ついさっき彼等を私と同じように扱おうとしたクラスメイト達。
これで良い。
cutie3の面子に呼ばれた時も、ルカやコウに呼ばれた時も、周囲の反応は同じようなものだった。そしてまた、私も同じ事を繰り返す。あの三人よりも手強くて、非道い事を言わなきゃならなかったけれど……。
これで良いんだ。
関わらなければ良い。近寄らなければ良い。関わらせないように。近付かせないように。巻き込みたくなければ――、嫌われてしまえば良い。悲しいと思うのも、寂しいと思うのも、止めてしまえ。
興奮したカレンが言う。どうしてそんな事言うの?!心配そうにが言う。私達、何か力になれないかな?冷静にミヨが言う。これ以上は無駄。無表情なルカが言う。そっか、判った。忌々しげにコウが言う。チッ…、勝手にしやがれ。
「――っ!…………う、っく」
夢の中で繰り返される言葉に、涙が零れて目が覚めた。みんなに非道い事を言ったのは、あんな事を言わせたのは、そう仕向けたのは私なのに。やっぱりとても、辛かった。それでも――。
我慢しなくちゃいけない。机に書き殴られた罵詈雑言は、私に向けられた物だ。バカだの死ねだの子供染みたものから、淫乱女だのサセ子だの屈辱的なものまで。なのに――少し同情的な態度をとっただけで、それは彼等にも向けられたんだから。
女なら同類として、男なら相手と勘繰られて噂は流れるだろう。そんな事になるくらいなら、そうなる前に止めてしまえば良い。止めなくちゃ駄目だ。隣室で寝ている父に気付かれないように声を殺し、布団を被る。小学生の頃よりも大切な人が増えていた私は、あの頃よりも涙腺が緩くなってしまったみたいだった。
◇◆◇◆◇
あれ以来、学校へ行くのが苦痛だった。蔓延した噂は面白おかしく変化して、それがさも事実であるように扱われる。それをネタに絡む男子達、汚らしいと視線を寄越す女子達。それでも平然として過ごさなければならないのが、何より苦痛だった。
グループ単位の実習やペアを組む必要のある授業では、殊更に。先生の手前、表立った真似はされない。だけど、休み時間になれば聞えよがしな会話が繰り返される。それを聞きたくなくても、私には行く所が無かった。教室から出れば、他のクラスのみんなと顔を合わせる確率が高くなってしまう。もし顔を合わせてしまったら……。他の生徒達と接するように彼等とも接しなければならないと思うと、教室から出られなかった。出来る限り出たくなかった。
毎朝、HR開始直前に教室へ着く。先生達が朝早くから見回りをしてくれているお蔭か、同じ嫌がらせを繰り返される事も無く半月以上が過ぎていた。どれだけ来たくなくとも、学校に来ないという方法は選べない。そんな事をすれば、父に知られてしまう。良い友達が出来たなと喜んでくれていた父を、心配させたくない。
「よォ、」
少なくとも、明日から四日は学校に来なくても良い。気晴らしに遠出でもしようかと考えながら校門を出た所で、見覚えのある顔に呼び止められた。さっさと帰りたいのに、こんな人目の多い所で。
「何?また殴られに来たの?」
以前、あの三人組と一緒になって絡んで来た三年生だ。ついこの間も二人で絡んで来てヤらせろだの何だの煩くて派手に喧嘩したのに、懲りない上にしつこい人達。
「デカい口叩くなよ。桜井兄弟と切れて寂しいだろ?」
その言葉があの時通りかかったルカの冷たい視線を思い出させて、心がざわめく。まるで知らない人間を見るような、どうでもいい物が視界に入ったとでも言うような目。助けてくれる人は、もう居ない。私が望んでそうしたのだから。
今は強気でいなければ、と頭を働かせる。授業後だんだん人の多くなって来るこの場所で喧嘩するのは、どう考えても馬鹿のする事だ。向こうもそれを解ってるだろうし、手出ししようとして声をかけたんじゃないんだろう。だったら適当にあしらって、さっさと帰ってしまえば良い。誰かに見られる前に――。
「さん!」
「ちょっと!篠崎君!!」
そう思って口を開こうとしたのを遮られた。周囲の視線が集まったのは、私の後ろだ。関わらない方が良いと言っているのは――、学年対抗の時に見た覚えがある。クラスは判らないけれど、一年の女子だ。駿斗と同じユニフォームを着ているという事は、彼女も陸上部員なんだろう。
二人が上げた大声は、一気に注目を集めてしまった。間が悪い。だけどそう思ったのは私だけじゃなかったみたいで、何だか都合の良い方へ転がってくれたらしい。あの二人の姿が遠くなって行くのを確認して、私も足を踏み出した。けれど、それが半歩で止められる。前に回り込んだ駿斗を睨んでも、彼は退こうとしないまま――。
「止めなよ、その人悪い噂しか聞かないじゃない!」
「君は黙ってて。僕はさんに聞きたい事があるんだ」
「邪魔よ。退いて頂戴」
「長久さんが言ってた。君の言動はおかしい、偽悪的だって」
続けられる言葉が、私を絶望的な気分にさせる。そこまで気付いているのなら、どうして放っておいてくれないんだろう。巻き込みたくないという思いが私のエゴだと言うのなら、力になりたいと言う彼等の思いも似たようなものなのに。
「あらそう、」
「お前ら道塞いでんじゃねぇ。邪魔なんだよ」
あなた達の偽善的行為と相性が良さそうね。そう言って笑おうとした。それを遮って通り過ぎて行く大きな背中が、また心をざわめかせる。声をかけちゃいけない。手を伸ばしちゃいけない。嫌われる事を選んだのは、私なんだから。
「長久さんも藤間も、僕だって――」
「思い込みが激しいね。さよなら」
「篠崎君!もう止めなよ。あんな人と関わってたら、」
駿斗の言葉を無視して歩き出す。変な人に絡まれたり悪い噂に巻き込まれたりしたら、困るのは篠崎君なんだよ!叫び声に近くなっている彼女の言葉は正しい。駿斗だけじゃない。トーマも明璃も、それぞれの部活で活躍してる。悪い噂に巻き込まれたりしたら、どうなるか……。そうじゃなくても、こんな事に首を突っ込まない方が良いに決まってる。
正面を見ていると、灰色の雲に覆われそうな空から湿り気を帯びた風が吹いて来るみたいだ。もしかしたら、雨が降るのかもしれない。落ちそうになる視線を上げて、何でもないって顔で足を動かす。ただそれだけの事が、酷く苦痛だった。
◇◆◇◆◇
どうして?真っ先に思ったのはそれだった。時期遅れの台風に見舞われて遠出どころじゃなかった連休も今日で終わり。明日からはまた――という夜遅くになって、短い着信音が鳴った。請求額確定メールだろうと携帯を開けば、それは……。
一度で良い。電話して。
彼女らしい簡潔なメッセージ。だけど、どうして?あの時ミヨは、これ以上は無駄だと言って諦めてくれた筈。尚も言い募ろうとしていたカレンとを説き伏せてくれたのも、彼女だった。それを今更、何の為に電話しろと言うんだろう?
簡潔なメッセージだからこそ気になる。一度?電話?考えて直ぐ思い当たる理由は一番恐れている事しかなくて、もしそうだとしたら……違う。そんな筈ない。あれ以来、彼女達とは接触してない。顔を合わせた事すら無いんだから。そうじゃないと思いたい。
相手が彼女だからこそ、気になる。何かあったんじゃないか?って。何も無ければ、彼女が連絡を寄越す筈がない。じゃあ、何が?携帯を持ったまま、どれくらいそうしていただろう。このまま無視する事なんて出来なくて、アドレスを開いた。
……一回。……二回。
単調な電子音が繰り返される。どうしたら良いのか判らない。知りたいけど、知るのが恐い。でも、以前は親しくしていた≠ニいうだけで巻き込んでしまったのなら。私はどうすれば良い?六回目の電子音が消える前。懐かしい、声がした。
「」
「……誰か、……何があったの?」
「落ち着いて、よく聞いて」
彼女は全くいつもの通り、落ち着き払ったまま話し出した。次第に私は呆然とするしかなくなって行く。最後まで聞き終えたと判った時になって、漸く口を開いた。本当に一言。もう、それしか口に出来なかった。
「――判った」
◇◆◇◆◇
日課になっているランニングを終えて、庭で軽くストレッチを済ませる。寝転んだままの視界に入って来る風景は、台風一過の澄み渡った青空が憎らしく思えるくらい綺麗だった。正反対の気分を無理矢理押さえ込んで家を出る。いつもよりも早く、いつもよりも速く。
――何かあったら――
人影が無いのを確認してから校門を潜った。まだ碌に人の居ない校舎を歩くのは、不思議な気分だった。何も物音がしないわけじゃない。でも、普段のような賑やかしい空間でもない。明るい日差しが差し込んで、無機質な場所に足りない何かを補っているみたいだ。
自分の靴箱を確認して、靴を履きかえる。靴箱から階段へ。階段から廊下へ。廊下から教室へ。既に開けられている窓から掛け声が聞こえて来るのは、運動部の朝練が始まっているからだろう。一人分の足音しかしない教室で、自分の席を目指す。机は、いつもと変わらないままそこにあった。でも――。
本当に、何かがあった。引いた椅子の座面は、読み取るのが難しいくらいの文字で埋め尽くされている。あの時と同じように、血を流しているみたいに。鞄から取り出した薬品をタオルに含ませ、口汚い罵り文句を擦る。塗装用に開発されたそれは頭の痛くなる臭いがして嫌いだったけれど、今回ばかりはそんな事を気にしていられない。
――必ず連絡して――
跡形も無く消え去った赤は、全部がタオルに吸い込まれた。それをゴミ箱に投げ、携帯を取り出して一本の短いメールを送信する。私がするべき事は、……今出来る事はここまで。
二分も経たずに震えた携帯を確かめれば、端的に用件を伝える返信。これで良い。後は相手がどう出るかで、こちらがどうするのかを決められる筈。立て続けに震える携帯から、彼女達の声が聞こえて来るような気がした。
――約束――
◇◆◇◆◇
初めに教室へ入って来たクラスメイトは、驚いた顔をした。何も言わないまま席に着いて、他のクラスメイト達が増えるにつれて、場が騒がしくなって行く。そして私は、いつものように扱われる。人によっては道端の石ころのように。人によっては汚らしい物のように。
そして暫くは、いつものように時間が過ぎて行った。違ったのは、ただ一つ。毎時間、授業が終わると直ぐに教室を出る。どこに行くわけでもないけれど、ただ時間を潰す為に。昼休みには、こっそり外へ。誰とも話さないでいるには、それが一番確実だったから。
「ほら、あの子。またやられたんだって」
「マジ?まだ一ヵ月も経ってないじゃん」
午後になると、また噂が流れていた。教室まで戻る数分で、何度も聞こえて来る。噂の張本人に聞こえないように……なんて事、思いもしないんだろう。寧ろ聞こえるようにとでも思っているのかもしれない。
「よっぽど恨み買ってんじゃない?」
「遊ばれた男とか彼氏盗られた女とか?」
だけど――面白がって揶揄されるのも、嘲るように笑われるのも、もうどうでも良かった。早く時間が過ぎて欲しい。そう願って、その時だけを待っていた。
教室に戻ると、窓際近くの席から明璃がこちらを見ている。その横の席から駿斗が、左を向けばトーマが。という事は、彼等も噂を耳にしたんだろう。私がまた、始業式の時と同じ嫌がらせを受けたらしいという噂を。チャイムが響く中、居心地の悪さを感じつつトーマの席を横切った。
五限目が終わって、直ぐ席を立った。体育祭の時と同じように呼び止めた明璃を一瞥して、歩き出す。待てよ、と不意に腕を掴んだのはトーマだった。それを払って扉から出ようとするのを遮ったのは、駿斗だ。
「邪魔よ。退いて頂戴」
何日か前と同じように。且つ、語気を強めて睨み付ける。話があると言う三人の声を背に廊下へ出れば、彼等の大声に気付いたんだろう。既に何人かの生徒が顔を出していた。
とにかく、ここから離れようと足を動かす。今は駄目。今はまだ、大きな騒ぎを起こしたくない。早足になりながら隣の教室を過ぎた所で、また腕を掴まれた。振り返るまでもなく、荒げられた声でトーマだと判る。目の前には駿斗と明璃が回り込んでいて、通せんぼ状態。彼等に対して手荒な真似なんて出来る筈もなくて、私は同じ言葉を繰り返す。
「邪魔だと言ってるでしょう?退いて頂戴」
「あんた何様のつもり?!」
口々に話を聞けと言う三人の声を掻き消すようにして響いたのは、どこかで聞いた事のある声だ。振り向けば、そこには彼女が居た。怒っているような泣いているような表情で、興奮しきった様子で罵声を浴びせる。
こんな人に構ってたら同類だと思われるだの、何でこんな人を庇うのかだの。彼女の言っている事は、一々正しいと思う。だけど、ミヨの言っていた事が的を得ているのなら――。
「何よ?!本当の事じゃない!」
「長谷川さん、落ち着いて!」
私の視線に気付いたらしい彼女が叫ぶと、それを落ち着かせようと駿斗が声をかける。彼女は陸上部の一年生で、駿斗と同じく短距離走のスプリンター。中等部の頃から実力のある人だったらしいから、ガヤガヤと騒がしい野次馬達も彼女の事を知っているのだろう。
「足が速いだけで先輩達にチヤホヤされて!篠崎君の事だって騙してるんでしょう?!あの桜井兄弟を手玉に取って色んな男と遊んでるぐらいだし、恐いもの無しよね!あんたなんか恨まれて当然よ!!今日だって椅子に落書きされてたって聞いたわ。その内机や椅子だけじゃなく、」
「?!」
「――っ!!何するのよ?!」
トーマの手を払った私は、返す手で彼女を思い切り引っ叩いた。周囲は水を打ったように静まって、ヒステリックな叫び声が響き渡る。二、三歩よろけてその場に倒れた彼女は頬を押さえて涙目で睨み付けているけれど、謝るつもりも同情するつもりも無い。
「どうして知ってるの?」
「あんたの噂なんて幾らでもあるじゃない!何もしてない相手に暴力振るうなんて最低!ああ、そういえば不良と喧嘩してるとかその人達とも寝てるとかって噂もあったし、」
「もう一度聞くわ。どうして今日の嫌がらせが椅子だったと知ってるの?」
「そんなの決まってるじゃない。噂で――」
そんな筈無い。今日、新しく流された噂はが始業式の時と同じ嫌がらせを受けた≠ニいうだけのもの。それが椅子に書かれていた事を知っているのは、私と私が知らせた人以外には一人しか居ない筈だ。
あの時聞いた推測が事実だったという事に対して、馬鹿馬鹿しくて声にもならない。頭の中では至極冷静に彼女を追い詰めようと考えているのに、感情が付いて行けないままだった。
「噂じゃ判らない」
野次馬の向こうから届いた声は、ざわめきと一緒に二人の先生を連れて来た。そして何より、私の待ち望んでいた時を。

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豪い長くなったなぁ。
何せ一小節じゃ終わらんかった。
こういう場面って、特に短く仕上げるのが苦手だわー。
橘朋美
FileNo.108 2012/8/31 |