「それでは明日、6月13日の各地のお天気です」
キッチンから耳を澄ましていれば、明日も良い天気になるらしい。例年よりも暑くなるでしょうと付け加えられた予報を聞いて、ステンレスボトルは大きな方を持って行こうと決めた。そんな風に達と約束したお弁当の準備をしていると、楽しそうだな?と、リビングから声がして。
「だって、実際に楽しみなんだもの」
「はは、まるで遠足前の子供みたいだな」
「もうっ、父さん!」
すまんすまんと謝る父は、それでも笑ったまま。けど、良い事だ――と更に目を細めた。今日は早く寝るんだぞ?と言って寝室に向かった父にハーイと返し、今日までの事を振り返る。体育祭の事を話すと、父はとても喜んでくれた。いつもは私がしている夕食の支度や片付けを自分がやると言って、代わりに練習を頑張れと笑ってくれた。父兄の見学が許可されていないのを知って、とても残念そうにもしてたっけ。
「ん、準備OK」
下準備を済ませた食材を冷蔵庫に入れて、炊飯器のタイマーをいつもより一時間早くにセットした私は、お風呂でもベッドでもワクワクした気分を抑えられなかった。でも――練習続きで疲れていた身体は、自分で思っていたよりも正直だったらしい。明日は寝不足になりたくないんだけどなぁ、なんて考える間も無く、深い眠りに落ちていた。
◇◆◇◆◇
満タンのランチボックスを持ってバッグを肩に下げ、行ってきまーす!と扉を開ける。送り出してくれた父の声を後に外へ出ると予報通りの晴天と湿度の高い空気に迎えられて、これは確かに暑くなりそうだ――と、目を細めて太陽を見上げた。
「おい」
「え?コウ!おはよ。朝早くからどうかしたの?」
光の強さで白に覆われた視界はハッキリとしなかったけれど、その高いシルエットと声は間違えようがない。意外な出迎えに驚いていると、ルカの提案で迎えに来てくれたのだという。
「そっか。じゃあルカは、」
「ああ、古浪んトコだ。オラ、貸せ」
ぶっきらぼうなのに優しい所は相変わらずなコウに、ランチボックスを渡して――と言うよりは半ば強引に奪われて。ありがと。と言えば、返って来たのはやっぱり昔と同じ返事だったけど……二人で学校までの道を歩いて、教室の前で別れて。何だか新鮮な気分だった。
「じゃあみんな、今日は練習の成果を充分発揮するのよ!」
体育科教諭の性なのか、吉野先生は普段より張り切ってるみたいだ。HRが済むと体操着に着替えた男子達がゾロゾロと教室を出て行って、残った女子達が騒ぎながら着替え始める。さっさと着替えを済ませて教室を出ようとした時、さん!って大きな声に驚いて振り返ったら――。
「今日はベストタイム狙おうね!」
拳を上げた明璃に続いて、頑張って!とか、期待してるよ!とかって声が飛んで来る。ええ、勿論!と答えて教室を出ると、にっこり微笑んだ満足げな先生に肩を叩かれて――今日はみんなと楽しみなさいと言われた私は、短く、でもハッキリ。はい!と答えて廊下を走った。その後、運悪く氷室先生に見付かって怒られたのは余談だ。
◇◆◇◆◇
クラス対抗は午前のラストで、学年対抗は午後のラスト。ぽっかりと空いた時間を、クラスごとに割り当てられたスペースで過ごしていた。玉入れと言うよりは玉当てになってしまった競技に笑ったり、二人三脚で転んでしまったクラスメイトを見てハラハラしたり。この学校って活気があるなぁ、なんて暢気な事を考えて空を見上げてたら突然。
「お前!そこの――ああ、もう……!お前だ!!」
「???」
イライラと怒鳴りながら走って来たのは、セージだった。入学式以来、お互い見かけても声をかける事すらしなかったのに何事かと思って首を傾げていると、彼はいきなり手を差し出して一言。
「来い!」
「は?どこへ――ちょ、何なの一体?!」
「良いから早くしろ!」
何の説明も無く、質問にも答えない。相変わらず子供みたいに自分勝手で横暴な彼に手首を掴まれて仕方なく立ち上がると、あちこちから囃し立てられる。近くで慌てて誰かを呼んでいる声も聞こえて、やっと判った。彼はきっと、借り物競争の最中なんだって。
「モタモタするな。もっと速く、走れない……のか?」
『私は走れるわ。でも、あなたはどうかしら?――ふふっ』
「――なっ?!おい、ちょっ……ま、」
手を引かれて彼の速度で走っていたのを逆転させて、彼を引っ張って走るのは楽しかった。勿論、彼が息を切らせていたのに気付いていたからこそ。ちょっと意地悪かもしれない、と頭の片隅で思いながらテープを切った。
「じゃあ、借り物の確認を――うん、合格」
係の人にそう言われて、一位の旗の後ろへ並ぶ。盛大に息を切らしてゴールした彼は、座ってからも荒い息を繰り返すばかりだったんだけど……息が整い始めた途端に怒り出す。何だか判り易い人だ。
「お前、よくも――あれは俺に対する嫌がらせか?そうなのか?!」
「あら、あなたが言ったのよ?もっと速く走れないのか、って」
「く……!!」
怒ったままの表情で顔を真っ赤にしているのをみると、返す言葉が無いという事なんだろう。ちょっとだけ胸の空くような思いで笑ってみせると、ふん!と言って膝に顔を伏せた彼の足元にヒラリと紙切れが落ちた。拾い上げたのは、本当に何となく。もしかしたら……グラウンドに落ちた白い紙が、とても異質な物のように思えたからなのかもしれない。
「お前、今何を……?っ、返せ!読むんじゃない!」
「――これ、あなたの?」
「ああそうだ。だから返せ。今直ぐ。見る前にだ!」
そんな事を言われても、今更遅い。だってその紙は、落ちた時には文字の書かれている側が表になっていたんだもの。拾った時点で読んでしまったのは不可抗力だと思いながらも一応謝って紙を差し出すと、彼はそれを引ったくりながら捲し立てる。
「こ、これは……、別に俺がそう思ったわけじゃない。客観的に見ればそう見えると思ったってだけで、確認係が納得するようなやつなら――そうだ、お前じゃなくても……単にお前がそこに居たからだ!」
「理由はどうであれ、あなたは私を選んだのよね?」
「っ――、それがどうした。だから何だっていうんだ」
「嬉しかったわ」
「…………は?」
「両親以外に言われた事なんて無かったし、凄く嬉しかった」
「お前――、」
「それに、よく似てるって言われてた母を褒められたみたいで幸せ」
「……ふうん。それじゃ、せいぜい俺に感謝しておけ」
初めて彼とまともな会話をしているのかもしれない。そう思ったけれど、やっぱり彼の物言いは横暴とも傲慢とも言えるもので。だけど、この幸せな気分をくれたのが彼である事に違いはない。
「ええ、そうするわ。ありがとう、セージ」
「〜〜〜っ、だからその呼び方は不愉快だ、と」
「でも、勝手にしろって言ったのはセージだわ」
それでも素直にお礼だけを言うつもりにはなれなくて、彼が嫌がるだろうと判っている呼び名を連呼した。私も案外、彼のように子供なのかもしれない。そんな事を思いながら笑って尋ねた。あなたの呼ばれたいように呼ぶから、何て呼ばれたいのか教えて?って。彼はまだ怒って赤い顔をしたままだったけれど、それでもセージで良いと言ってくれた。
◇◆◇◆◇
午前の競技は残すところあと一つ。つまりは私達の出番が迫っていた。それぞれのクラスから選手が集まり、各走者が指定された位置へと誘導されて行く。
「ええぇ、嘘でしょー。何あの子、何かの間違いとか?」
「けどホラ、あっちの男子。陸上部の子じゃない?」
トラックの外では、どの学年からもザワザワと声が上がってる。やっぱりね?とでも言うように駿斗がウィンクしたのを見て、私は顔だけで笑った。トラックの反対側では、きっと明璃とトーマも似たような遣り取りをしてるだろう。第一走者とアンカーはスタートラインのある向こう側で。第二、第三走者はこちら側で。A組からE組までの男女が揃って、それぞれ並んで待機している。だけど、F組だけが半分チグハグに。それが周囲のざわめきを呼んでいた。
「うわー、篠崎君が第二走者なんて聞いてないよ〜」
「冗談でしょー?っていうか、すっごい緊張するんだけどー」
毎年、クラス対抗のスウェーデンリレーは100m200mを女子が。300m400mを男子が走るのが当たり前のようになっているらしい。スタミナの差を考えると、それは仕方ないのかもしれない。だからこそ、第二走者である女子五人に混ざって駿斗が並び、第三走者である男子五人に混ざって私が並んでいるのは相当目立つ。
練習を始めたばかりの頃は、私達も他のクラスと同じように組んでいた。だけど、何度か走った後。さん、一度交代して走ってみない?そう提案されて、トーマと明璃にも試しにやってみようと言われて。じゃあ、と駿斗と交代して走ってみたら、それまでより明らかに早いタイムを叩き出していたから。
「なあ、あれ入学式の時のヤツだよな?」
「ああ。見た目外人で名前日本人とか、色々有名じゃん」
よっしゃ!これなら勝てる!!あの時、そう叫んだトーマのテンションの高さは忘れようにも忘れられないだろう。痛いくらいに何度も肩を叩かれて、、お前が300走れ!篠崎は200で決まりだ!!って。
200mは最初のカーブでの加速が一番大事なんだ。直線でトップスピードに乗る為には、どうしてもコーナリング技術が必要になってくる。学校のトラックは競技場の半分だから少し勝手が違うけど、僕は元々短距離が専門だから慣れてるし、君のスタミナなら300も任せられると思う。
真剣な顔でそう言った駿斗に駄目かな?と尋ねられた時には、陸上部の彼がそこまで言うのだから、と明璃も賛成してたっけ。それ以降、今の順番で練習を続けて来た。
「それではいよいよ……クラス対抗、スウェーデンリレーの開始です!」
第一走者である明璃が上位を走って駿斗に繋ぐのが勝利への布石だとトーマは言い、一番の鍵は駿斗がよりトップに近付く事だと明璃が言った。全力を尽くすと答えた駿斗がさんは状況に応じて走ってくれれば大丈夫だと言って、私はバトンを受け取った時の順位をキープしてトーマに渡すわと言った。つい十分ほど前の事だ。
「第二走者はレーンに並んで下さい!」
向こう側では第一走者達がスタートラインに並び、合図を待ってる。第三走者は白線の内側から出ないように!と係の人が声を張り上げる。一年生のスペースからはそれぞれクラメイトへの声援が飛んで、上級生のスペースでは運動部の後輩に向けて発破がかけられているらしい。篠崎ー!ここで負けたらスプリンターの名が泣くぞー!!という声も聞こえて来た。
「位置に着いて!用意――」
掛け声がほんの僅かな静寂を呼び、乾いた破裂音が響いた。途端に歓声が沸き上がり、他の走者に比べて身長の低い明璃がトップ集団に紛れて疾走するのが見える。あんなに必死に走っている彼女に聞こえるだろうか?そう思いながら、私も声を張り上げていた。
あっという間に100mを走り切った明璃は転んでしまうんじゃないだろうかという勢いで駿斗にバトンを渡した後、こちらに来て、今は両膝に手を当てて肩で息をしている。
「ごめ、……これが、限、界――」
「充分よ!後は私達に任せて。行って来るわ」
第三走者は直ぐにレーンへ!と声がかかり、移動しながら様子を見る。駿斗が何位を走っているのかは直ぐに判った。団子状態で三位だった明璃からバトンを受け取った後、私が明璃と話していた数秒で、彼はトップ集団を抜けていたのだ。
ラインを踏まないように注意して位置に着き、身体を正面に向けたまま首だけを回して駿斗を確認する。もう少し。あと数秒。二位以下との差を広げた彼が近付いて来る。練習の時を思い出して姿勢を整え、視界の端から駿斗が消えたのを確認して前を向いた。その直後。
「さんっ!――行って!!」
「Yes sir!」
確かな手応えを感じた私は走り出した。トップでバトンを受け取ったとはいえ、二位との差は油断出来るものじゃなかった。状況に応じて、という言葉通りに走る。土を蹴り、その振動を感じながら只管に。直線に入った所で突き上げた拳をグルグル回しているトーマが目に入った。彼は何か叫んでいたみたいだけれど、周囲の歓声に紛れたそれを置き去りにして走り続ける。
他の走者がどれだけ近付いているのかなんて判らないのが当然で、トップのまま走り続けるんだという事以外は頭に無かった。二度目の直線で両手を振りながら飛び跳ねている明璃と何か叫んでいるらしい駿斗が見えて、次のカーブを抜ければ最後の短い直線だと腕を振り、膝を上げ、前だけを見て走り抜けた。僅かに傾いていた身体が通常のバランスを取り戻し、前方に並んだ背中が見える。その内の一つを目指してラストスパートをかけた。
「トーマっ!!」
「任せろ!!」
殆ど転がるようにしてトラックの内側に入った後、足を投げ出し両手を後ろに着いて空を見上げた。大きな歓声が聞こえるのはレースが混戦模様になったからだろうか?そう思っても身体を動かせないのがもどかしい。バクバクと脈打つ心臓の音が五月蠅くて、息が上がって苦しいと思うのに気持ち良くて、少なくともトップのままバトンを渡せた事に満足感が湧いて来る。
走り終えた第三走者が揃った頃。漸く息が整いかけていた私の耳に入ったのは、トーマへの声援だ。それは絶叫と言っても過言じゃないくらいの声で、クラスメイト達が発していると気付いた。トーマがそこを走り抜ける時、その声援が一際大きくなったからだ。彼が目の前を通過するの見て、良かったと思う。アンカーの走る距離は、あと一周。二位との差は既に歴然で、余程の事が無い限りトップでゴールするだろうから。
「お疲れ様、さん。大活躍だったね」
「本当に凄かったよ〜。さん、サイッコー!」
振り向けば、そこに二人が居た。他のクラスの出場者達も、アンカーを迎える為にこちらへ移動して来ていたらしい。気が付けば、何人もの人達が声を張り上げている。あ、来た!そう叫んだ明璃がさっきみたいに飛び跳ねて、ラストスパートだ藤間!と駿斗が発破をかけたのが聞こえたみたいにトーマは速度を上げ、真っ直ぐゴールへ。
「きゃー!一位だ一位!凄いよ藤間君!!」
「おう、っ……たりまえだ!あれで負けちゃ、男が廃る、だろー?」
「みんなのお蔭で最高の気分だわ。ありがとう」
「一番の立役者が言う台詞じゃないよ」
イマイチ意味が解らなくて首を傾げると、三人は同時に笑い出した。選手の解散が告げられて、みんなでクラスの応援スペースに戻る。私も自然と笑いながら、これが青春を謳歌している瞬間なんだろうって思っていた。

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うはぁ…考えとったより長なった。
これ、二話で終わらせられるんだろうか。
橘朋美
FileNo.105 2012/8/15 |