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004



「行ってきまーす」

誰も居ない家に鍵をかけて、祖母の使っていた自転車に跨る。どこか不安定さを感じさせるその華奢なフォルムには、どうにも慣れない。でも、歩いて行くには無理があるから我慢してペダルを漕ぐ。潮風に吹かれながら、漕いで漕いで、あのビーチへ。

バイクの免許は受験が済んでからだぞ。何日か前、舞い上がっていた私に、父はそう釘を刺した。理由はアルバイトのと同じ。まあ確かに、自分で稼いだお金でバイクを買う場合を思えば、それでも早く乗れるようになるんだから文句なんて言えないんだけど。

「うーん、今日も貸し切り!」

潰れた食堂の影に自転車を置いて砂浜に下りれば、いつもどおり無人の海が迎えてくれる。ここ何日か、天気の良い日はいつもここへ泳ぎに来ていた。岩場を回り込んで服を脱ぎ、バッグを重石にすれば準備は完了。そのままダイブして、ゆっくりゆっくり泳ぎ出す。子供の頃、母に教えられたように。早く泳ぐのではなく、長く泳ぐ為に。

「やっぱり、持久力落ちてるのかなぁ?」

もう三年以上、海では泳いでいなかった。目標物の無いこの海ではどれくらい泳いだのかも判らなくて、ただひたすら浜から離れないように泳ぐだけ。伴走してくれる人が居なければ沖へ向かって泳ぐなんて危険過ぎるから、それは仕方ないんだけど……何だか物足りない。そんな風に考えるようになると、飽きてきた証拠だ。そうなったら潜ってみたり、ただプカプカ浮いてみたり。気儘な時間をそうして過ごす毎日は、海の中に沢山の月が浮かぶようになった頃に終わらせるしかなくなってしまった。

◇◆◇◆◇

「ただいま」

カチャリと玄関の扉が開く音がすると、荷物を担いだ父が一言。それだけで、室内の気温が上がったような気分になる。肌寒い日が続くようになって、人恋しさが増しているのかもしれない。そんな事を思いはしたけれど、勿論、口にする事は一度も無かった。

「お帰りー。お風呂もう入れるよ」

リビングから声をかけると、いつものように短い返事が返って来る。そんな父がバスタオルで乱暴に頭を拭きながらテーブルに着くと、やっと遅い夕食が始まる。一人で食べるのは味気ないから、今日みたいな日は私も一緒に。

「お、茶碗蒸しか」

この三年ほどで、料理の腕は結構上達したと思う。まあ何と言うか、最初の頃の腕前が酷過ぎただけなのかもしれないけれど。何せあの頃は、半生の唐揚げだったり、芯の残っている肉じゃがだったり、表面の硬いチャーハンだったり……とにかく、食べるのに苦労するような物しか作れなかった。それが今では、茶碗蒸しや炊き込みご飯だって上手く作れるようになったんだから。

「ふふーん、美味しいでしょ?」

大きな手に似合わない小さな木製のスプーンを口に運ぶ父にニッコリ微笑むと、料理の腕も成長したなあ、と嬉しそうに褒めてくれる。そんな風にして穏やかな季候と同じような日々が過ぎて行き、この冬一番の寒波に見舞われると予報された翌日。二度目の高校受験の日がやって来た。

、本当に送って行かなくても良いのか?」

昨夜と今朝と、そして今。同じ台詞に同じ返事を返すのも三回目。身支度を整えてバッグを肩に引っ掛けて、行って来ますと家を出る。確かにかなり冷え込んでいて、吐く息の白さが際立って見えた。

幾つかの教室に分かれて行われたペーパー試験は難無く終わり、推薦枠ではないお陰で面接試験は無い。解答欄は全部埋めたし、それほど難しい問題も無かった。後は合格発表を待つだけだ。その日が来れば教習所に行けるようになるし、一ヶ月もすれば免許も取れるだろう。それを考えると、家に向かう足取りは自然と軽くなっていた。

◇◆◇◆◇

合格発表の翌日、電話だと言って父に呼ばれた。私に電話をかけてくる人なんて、全く心当たりが無い。訝りながら受話器を受け取ると、向こうからは知らない人の声がした。

はばたき学園の教師だと言って名乗ったその人は、事務的な口調で用件だけを伝えて会話を終わらせようとした。ちょっと待って下さい!と慌てて口走ると、質問があるなら当日直接聞くと言って、以上だ、と……今度こそ電話を切られてしまう。

「どうした、何かあったのか?」

受話器を持ったまま唖然としていると、反対の耳から父の心配そうな声がした。どうやら父は何も聞かされていなかったらしく、簡単に説明する。入学式で新入生代表として挨拶をするように言われた事。その打ち合わせの為、式の前日に登校するように、と言われた事を。

どうせ通知が届くのだからと思って、合格発表は見に行っていない。掲示板の前に人だかりが出来るだろうと判っていて、行こうと思える筈も無い。そんな場所に行くなんて、一歩間違えば自殺行為になりかねないのだから。勿論、父にはその事を話してもいなかった。言えばきっと、自分が見て来ると言い出しただろう。次のレースに向けての調整で忙しくなっている時期に、態々手間を取らせたくなかった。

「へえ、凄いじゃないか!」

父は本当に嬉しそうに笑ってくれたけれど、私は喜べなかった。壇上で挨拶するなんて目立つ真似を入学初日にやれだなんて冗談じゃない!面接試験は無かったけれど、履歴書はちゃんと提出した。学校側だって私の経歴は承知している筈なのに、どうしてそんな事を言うのか理解出来ない。日本人には見えない容姿。事情があったとはいえ退学歴もあって、一年留年している。気は進まなかったけれど、備考欄には過喚起症候群の事も、その原因となった事件の事も書いた。なのに何故――。

◇◆◇◆◇

悩んだ挙句、私は翌日電話をかけた。どうして私にそんな役が回って来たのか、何とか変更してもらえないだろうかと考えながら。けれど……。

「君か。質問があれば当日直接聞くと言った筈だが?」

その威圧的とも言える言葉を聞いて、期待薄かもしれないと思った。それでも、このまま話を打ち切られてしまっては元も子も無い、と自分を奮い立たせて一気に喋る。私の履歴書は確認されている筈なのに何故新入生代表なんて役を与えられるのか、他の生徒に変更してもらう事は出来ないのか、と。

「入学試験に於ける君の回答はパーフェクトだった。我が校では、入学試験でトップだった者が新入生代表を務める事になっている。よって変更は、止むを得ない事情が無い限り認められない」

「でも!」

「君は自分の経歴を気にしているのか?ならば問題無い。我々は、個人のプライバシーに関する事を公表などしない。無論、病気の事も承知している。特定の状況下に無ければ避けられる事だと判断した」

「そうじゃない!」

「ならば何故――。もしや、君は自分の容姿が問題だとでも……いや。……すまない、訂正しよう。君は、もしや自分の容姿にコンプレックスを抱いているのか?」

「え、……っ」

何とか食い下がろうとしていた私は、相手の思わぬ一言で言葉を失った。訂正された質問に対して、返す言葉が見付からない。私は、母譲りのこの姿を――。

気にしていなかったわけじゃない。どうして髪や目の色が違うだけで周囲から白い目で見られなければならないのか。小学生の頃、確かにそう思っていた。その頃からだったろうか?私はみんなと違うから避けられる。それでも私は普通の子供なんだ、と思い込むようになったのは。

初めて大喧嘩をした時、死んだ母を侮辱されたようで許せなかったのに。それより以前に、私自身が母を侮辱していたようなものだ。そう思ったら、驚くほど自然に結論が出ていた。

「どうした、答えなさい。そうではないと言うならば、それこそ問題は無い筈だ。だが、もしそうだと言うならば……変更を検討しよう」

「いえ、結構です。私は、自分の容姿に恥じる所はありません」

「そうか……」

「ご迷惑をお掛けして、すみませんでした」

「問題無い。君は既に、我が校の生徒同様なのだから」

お礼を言って電話を切ろうとしたら、打ち合わせの日は遅刻などしないようにと釘を刺され、やっぱり一言。以上だ、という言葉を最後に電話は切られた。威圧的で絶対君主みたいに横暴な人かと思っていたけれど、そうでもなかったみたいだ。

こんな先生が居るのなら、案外面白い高校生活を送る事が出来るかもしれない。本来の目的とは違う方向へと転がってしまったけれど、思い切って電話をしてみて良かった。そんな風に思えるようになったのが、一番の収穫だったんだと思う。

◇◆◇◆◇

カレンダーを一枚捲ると、青空をバックにした一枝に咲く桃の花が、一面に咲き乱れる桜と変わる。その右上に一箇所だけ記された赤丸までの日を数えながら、父の帰りを待っていた。

はばたき学園に合格した事が判ってから今日まで、私はずっと教習所に通ってきた。合間に制服のオーダーや学校指定の品物を揃える為に、一度だけ学校へも行ったっけ。その時、妙な連中に会って不快な思いをした事もあったけれど……とにかく。漸く全ての条件を満たし、試験を受ける事になったのだ。

「うん、一発合格なら行けるかも」

試験日は週明けの月曜日。受かれば来週中に何度か慣らして、翌週は父とツーリングに行けるだろう。入学式の打ち合わせはそのまた翌週の三日だから、スケジュール的には問題も無い。

「え……、駄目?」

そう。私のスケジュールには何の問題も無かったのだけれど、父のスケジュールは……。運悪く、チームは翌週水曜にサーキット入りするという。帰って来るのは入学式前日になる――と申し訳なさそうに出された代案は、春のミーティング。今回は丁度はばたき山に集まるし、だいぶ暖かくなって来たから、初ツーリングには良いと思うぞ?と言われたけれど、私は……。

◇◆◇◆◇

試験は難無く合格し、免許は即日交付された。家に帰ると父は大きな桐箱を持って来て、ソファで寛ぐ私の前に置いて――。

、お前の物だ」

「私の?って……何これ?」

お前の物だなんて言われても、こんな箱に見覚えは無い。昔住んでいた家の押入れに、似たような木箱があったような気もするけれど……やっぱり私の物を入れていたなんて記憶は無かった。不思議に思って見上げると、父は穏やかに微笑んで。

「ローズの気に入ってた服が入ってる。開けてみろ」

「母さんの服?何で……」

バイク以外にも母の形見があったなんて知らなかった私は、心底驚いた。中を見るのが恐いわけじゃないのに、蓋を開けようと伸ばした手が汗ばんで行く。真っ先に目に入ったのは、透けるように薄くて真っ白な――――和紙だった。

上下左右から折り畳まれたそれを一枚一枚開いて行くと、次に見えたのは滑らかな黒。ああ、これは――見なくても判る。毎年、寒くなると母が好んで着ていた革ジャンだ。母はあの日も、これを着て颯爽とバイクに跨っていた。静かに持ち上げたそれを父に手渡し、和紙を除ける。裏返しに置かれていた蓋の無い箱を持ち上げると、また同じように和紙が。

次は何が入っているのだろう?全部出してしまって良いんだろうか?そんな戸惑いが、手を止める。父に聞いてみようかと思って見上げれば、声を出すより先に答えが降って来た。

「どうした、まだあるぞ?全部お前の物だ」

「…………うん」

同じように和紙を開いて行くと、見えたのは鮮やかな赤。どこかで見た事があるようなそれは、広げる事で記憶を呼び覚ました。いつだったか、記憶も定かじゃないくらい子供の頃。仕事から帰った母が、横浜でオーダーしたチャイナドレスだと言って見せてくれた。端々に施された蔓草のような銀糸の刺繍がキラキラして綺麗で、私も欲しい!と駄々を捏ねて両親を困らせたっけ。

堪えている涙は悲しさから来るものじゃなく、懐かしさから生まれるものだ。だから、鼻の奥がツンとしても、顔には笑みが浮かんでいた。

「ほら、まだもう一枚あるだろ?」

「もう一枚……」

そしてまた、同じ作業を繰り返す。逆さに置かれた蓋の無い箱を除けて、白い薄紙を開いて。だけど今度は、二枚、三枚と除けても色は見えない。そして、最後の薄紙の下から現れたのは――まっさらな白。

「お前にはまだ早いが、いつか……着てやれ」

「これ――、母さんの?」

見上げると、ただ頷いた父。手にある物は、ひたすらに白い――ウェディングドレス。母が着る筈だったと言う声は低く穏やかで、もう涙を堪える事は出来なくて、慌てて顔を背けるとポロポロポロポロ頬を伝って行くのが判る。不意に手から重みが消えると、頭を撫でられて。

「私の物は全ての物だ。って、いつも言ってたからな」

「父さん――、」

「お前は若い頃のローズと瓜二つだ。きっと、良く似合う」

「……っ、」

やっぱり私は母が大好きで、父が大好きで。二人の子供である事が、とても誇らしかった。母とはもう二度と会えないけれど、それでも。こうして両親から愛されているんだと実感出来る事が、とても嬉しかった。

◇◆◇◆◇

ミーティング当日になっても、やっぱり私は迷っていた。多くのライダーが集まる場所に一人で行っても、本当に大丈夫だろうか?と。きっと何人かの懐かしい顔を見られるだろうし、もしかしたらあの二人にも会えるかもしれない。そう思っても、何かあれば父を心配させるだろう事は明白で。

「やっぱり……、今日は止めとこ」

未練を感じながらもそう決めて、あの人気の無いビーチへ向かおうと気持ちを切り替えた。遅い昼食を済ませてから洗濯物を取り込んで、畳んだそれをあるべき場所に戻せば後は出かけるだけだ。ジーンズを穿き、薄手のTシャツの上に革ジャンを羽織って携帯と財布だけをポケットに入れ、玄関へ。

「行って来まーす」

いつものように鍵をかけ、ガレージのシャッターを開けてバイクに跨る。母みたいに様になっているかは判らないけれど、髪を捻り上げてから真新しいメットを被り、準備完了!とばかりにシリンダーへ差し込んだキーを回した。

住宅街を抜けて暫く。海岸線に沿って走れば、見慣れた食堂が見えて来る。夏には自転車を止めていた場所にバイクを止めてメットを取れば、一陣の風に煽られて、髪が靡くのを感じる。夏が終わってから足を運ぶ事の無かったいつもの岩場に向かおうと砂浜を歩けば、夏と変わらない小気味良い音がサクサクと響いた。

緩い潮風と温かな陽射しに春を感じながら岩場を回り込み、いつ頃から泳げるようになるんだろうか?と、夏に焦がれる。少なくとも四月や五月ではないだろう。そういえば、打ち合わせに行く時は制服を着て行かなくちゃいけないんだろうか?電話の向こう側に居た先生の様子を思えば、その方が良いんだろう。

腰を下ろして、膝を抱えた格好で、そんな事をつらつらと考える。小さな波音と時折り吹く風だけを相手に、それからどれくらい経った頃だろう?春とはいえ陽が落ちるのは早く、辺りはもう黄昏色に染まりつつあった。足元が見える内に戻らないと、と慌てて岩場を離れ、僅かに薄くなった自分の足跡を逆向きに辿って行くと――。

「あれ?」

バイクを置いた場所、あの食堂に違和感を感じた。まだ暗くなっていない所為か、イマイチ判らなかったけれど……。ある程度まで近付くと、それは確信に変わった。

「灯りが点いてる、って事は……」

こんな辺鄙な所でも借り手が付いたという事だろうか。それとも取り壊される事になったのか。借り手が付いたのなら、もうここには来ない方が良いのかもしれない。プライベートビーチのようなこの場所で泳げなくなるのは残念だけれど、店に人が集まるようになれば、ビーチも賑わうようになるだろう。

「取り敢えず……夏まで様子見、かな。――ん?」

まだそうなると決まったわけではないのだし、と気を取り直して防波堤を上がる。そして、視線を右に向けたその時。バイクの横に佇む人影を見付け、思わず足を止めた。シルエットからして、あれは男だろう。単に、ここに置かれたバイクを不思議に思って居るだけかもしれないけれど……油断は禁物だ。こんな場所で、どんな相手かも判らないんだから。

「私のバイクに何か用かしら?」

相手に嘗められないようにとポーズを作り、声をかける。それが再会の合図になるとは露知らず。頭の中で思い描いていたのは、母の所作だった。



     

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入学以前、主人公編はこれでお終い。
次は誰のを書こうかなーと。

割りとどうでもいい事ですが、主人公の身長はこの時点で177p。
更にどうでもいい事ですが、主人公父の身長は188cm、主人公母の身長は178cmです。





橘朋美







FileNo.004 2012/8/6