退院したら何をしよう?入院生活も三ヶ月を過ぎた頃には、そんな事ばかり考えるようになっていた。病棟にある本はいつも似たような雑誌ばかりで、新聞を読んでも大して面白くない上に、暇潰し程度にしかならない。テレビは元々見ない方だったし、手持ちのDVDは飽きるほど見てしまった。父さん以外に見舞いに来てくれる人なんて誰もいなくて、嫌と言うほど暇を持て余していたんだ。
「本当?!」
「ああ、本当だ」
念の為、月一回は通院するようにという条件付きではあったけれど、それも経過が良ければ半年で終わる。やっと普通の生活に戻れるんだと思うと、嬉しくて仕方がなかった。身体よりも心の傷が残るのを心配されていたらしく、面倒なテストや検査を何度も受けたし、碌に動けなかった期間が長かった所為で筋力が衰えているとかで、リハビリには随分梃子摺った。けど、もう退院出来るんだ。
「あ、父さん!」
「ん?何だ?」
私の携帯電話はあの時壊れてしまったらしく、あの日以来、目にする事は無かった。退院したら直ぐに新しい物を買ってもらう約束をしていたのを思い出して、慌てて父さんを呼び止める。カタログを貰って来て欲しいと頼んで父さんと別れた後、考えたのはあの二人の事。急に連絡が取れなくなった事を怒っているだろうか?それとも少しは心配してくれているだろうか?今度のミーティングには来るんだろうか?もし会えたら、今度は真っ先に携帯ナンバーを交換しよう。ああ、でも……もしも怒っていたなら、その前に謝らなきゃ。はしゃぎたくなる気持ちを抑えてその日を待つのは、これまでの退屈な日々が嘘のように楽しく感じられた。
「娘を……あそこに連れて行くだと?冗談じゃない!」
「申し訳ありませんが、お嬢さんにも確認して頂く必要があるんです」
二人の刑事が来たのは、週末に退院を控えた日の朝早くだった。本当に、あと数日だったのに……。当時の状況を確認し、それを記録する為に。警察は随分と長く私の回復を待っていたのだと言って、頭を下げた。
◇◆◇◆◇
あの時とは違う燦々と照る太陽の下で、あの時と同じ場所で。私は演劇の練習でもするように、ゆっくりと辺りを歩いて確認していた。父さんはずっと心配しているみたいで、私よりも落ち着かない様子だ。落ちた時の事も、犯人の事も、私は一度も口にしなかったから……忘れようとしているのだと思われていたのかもしれない。
「ここ、……かな」
あの時最初に私が居た位置。絶対とは言えないけれど、多分そう。作業着のような制服を着た男が二人、位置と書類を確認しながら何かを書き込む。そんな作業が淡々と進められて行く。一段落した所で少し待っているようにと言われ、一箇所だけ真新しさの残るフェンスから向こう側を見る。
「大丈夫か?」
横に並んだ父さんは心配そうにそう聞いたけれど、私は何も感じていなかった。元々、ここに来るのが恐かったわけじゃない。勿論、来たいと思っていたわけでもないけれど。どちらかと言えば思い出したくない出来事だし、さっさと終わらせて帰りたい。それが私の気持ちだった。ただ、それだけだった。
「うん」
ドクターからも、くどいほど聞かれた。高い所や刃物に対する恐怖を感じないか、男性に対して恐怖心を抱いていないかと。そして、それに関するテストを何度も受けていた。カッターや鋏、ナイフや包丁を扱えるか試したり、二階の窓から中庭の花壇を見たり、屋上を一人で歩いたり。狭い部屋で、知らない男の人と二人きりで話したりもしたっけ。何にせよ、ドクターの下した診断は問題無し。
「そうか……。辛くなったら、直ぐに言うんだぞ」
それに、あの時と今は違う。当時の事を確認するだけで、誰かが私を傷付けようとしているわけじゃない。だから――何も心配してなかったのに。それは、突如として私をパニック状態に陥れた。男に捕まえられ、引き摺られる。あの時の事を再現しようとした刑事が、後ろから私を拘束した時だった。
「……や。あ、やだ……、嫌ぁーっ!!」
驚いた刑事は私の攻撃を避けられずにフェンスへ激突し、辺りに大きな音が響き渡る。上手く息が出来なくて、ただ苦しい。指先が冷えたように痺れ、それを唇にまで感じるようになった頃。駆け寄った父さんの制止すら聞かずに暴れていたのが漸く静かになったと思えば、私は意識を失っていたのだという。
強いストレスによる発作、それは過換気症候群だと診断された。様々な検証の結果、それは特定の状況下にあれば、相手が誰であっても引き起こされる可能性が高いとも。それは、とても信憑性の高いものだった。何せ私は……誰だか知らされていなかったとはいえ、父を相手にしてさえ、その症状を引き起こしたのだから。
ドクターから話を聞かされた時の父は、かなりショックを受けていた。私も、それなりに。けれど、対処法が無いわけではないと教えられ、くれぐれも気をつけて生活するようにと言われ……それから私は、以前にもまして人の多い場所を避けるようになった。
◇◆◇◆◇
そして梅雨が明けた頃、漸く延び延びになっていた退院の日を迎えたのだけれど――。
「ねぇ父さん……」
「なんだ、着替え済んだのか?あー……」
「やっぱり変だよね、これ」
「ははは。こりゃまた豪く成長したもんだ」
入院中はずっとレンタルのパジャマを着ていたし、あの時も父さんの上着を上から羽織っていただけだったから気付かなかった。父さんが持って来てくれた服は間違いなく以前から私が着ていた物だったのに、何だか全体的に小さくなっていたんだ。ジーンズの裾は踝が丸見えの位置にあるし、お尻が窮屈で仕方が無い。タンクトップはチビTみたいにパツパツ。ダンガリーのボタンは胸の辺りで左右に引かれて、妙な隙間を作ってる。
「もう!笑い事じゃないでしょ」
「ははっ、悪い悪い。じゃあ、退院祝いに何着か買って帰るか」
「ホント?やった!」
「やれやれ、現金なもんだ。あー、けど、その格好じゃなあ」
微妙な表情で父に言われ、何とか誤魔化せないかと考えた数分後。脹脛まで大きく捲り上げたジーンズとボタンを止めずに胸の下で縛ったダンガリーは、良い感じに最後の役目を果たしていてくれた。挨拶ついでにとナースステーションに寄って身長を測ってもらうと、以前測った時から七センチも伸びていて驚いたっけ。
最後まで使っていた身の回りの物を詰めたバッグを手に、タクシーへ乗り込む。一番に向かったのは、こっちに越して来た時にも行った携帯ショップだった。引渡しに二時間ほど掛かると言われ、次は服を買いに近くのショッピングモールへ。以前から利用していたジーンズショップとブティックで数着を買い揃え、ランジェリーショップ入ろうとした時になって。
「あー、こういう所はなあ……、一人で行けるか?」
「?……うん、大丈夫だよ。ここ混んでないし」
買い物をしている間も歩いている間もずっと私の後ろに居てくれた父は、数メートル先のフードコートで待っていると言い、二枚の万札を渡してから歩いて行ってしまった。本当は、少しだけ不安だった。後ろに居るのが誰だか判っていれば、発作を起こす確率は格段に低かったから。でも……こんな事は、これから何度でもあるんだ。普通に生活していれば、それこそ数え切れないほど。私は強く――ならなくちゃいけない。
「いらっしゃいませ」
「こんにちは。今日はサイズチェックをして欲しいんだ」
顔見知りの店員が迎えてくれた事に安心して、それでも気を抜かないように奥のフィッティングルームへ。メジャーを手にして後ろに立った彼女の指示で、心持ち腕を上げる。――大丈夫、この人は私を傷付けたりしない。
「あら、アンダーは殆ど変わっていないみたい」
「そう?良かった」
「まあ。ふふっ、やっぱり成長期の女の子なのね」
正面に位置を変えた彼女がニッコリと笑うのを見て、また唱える。ほら、大丈夫だった。何も心配しなくても良いんだ。そう自分に言い聞かせるようにして、心の中で。
顧客ファイルの書き込みを終えた彼女に幾つかのお勧めを聞いて、気に入った物を選んで。清算してもらうと、手元に残ったのは数枚の硬貨だけだった。こんなに使っちゃって父さんビックリするかな?なんて考えながら、フードコートを目指す。その時の私は、まるで初めてのお使いを無事に終えた子供みたいにウキウキしていた。
◇◆◇◆◇
「うーん……どうしようかなぁ」
この台詞、朝からもう何回目だろう?小さな独り言は、誰にも聞かれずに消えて行く。父がサーキットへ向かった日の午後、私は珍しく真剣に悩んでいたのだ。原因は、進路について。今更こんな事で悩まなきゃならないなんて何だか面倒だ、というのが本音。でも、父を安心させたいというのも本音の一つだ。
このまま社会に出るには不安が大きい。せめて高校卒業後に就職してくれ、というのが父の願いだった。特に何がしたいという目的の無い私は、それに反抗する理由も見付からなかった。だからこうして勉強もしていたのだけれど。
自主退学せざるを得なかった高校以外に、ここからバスや電車を使わずに通える高校は無い。経済的な問題は気にしなくても良いと言ってくれた父は、通いたい高校の近くに引っ越せば良いだけだと笑っていた。きっと、それは本気だろう。父の仕事は、余程の僻地にでも住まなければ今と変わらない状態で続けられるのだから。
「うーん……ホント、どうしようかなぁ」
ついには溜息まで吐いて思い切り伸びをした瞬間、携帯が鳴った。こんな時間に掛かってくるなんて何かあったんだろうか?自宅と父の携帯ナンバー以外登録されていないそれを慌てて手にとり通話ボタンを押せば、電話の向こう側から父の焦った声が響いた。
「え、死んだって――お祖母ちゃんが?」
生まれてこの方会った事も話した事も無い人の訃報は、父と私をはばたき市へと招いた。
◇◆◇◆◇
事後の手続きが多くあるからと父は本戦開始直前まで休暇を取り、何度も役所や病院へと足を運んでいた。見知らぬ家で留守番をしているのが落ち着かず、私はあちこち出歩いた。父の育った土地を巡って気付いたのは、とても環境の整った都市であるという事。ゴミゴミとした街並みは無く、かといって閑散としているわけでもない。ホームページで詳しく調べてみれば、公共交通機関や道路は丹念に整備され、その停留所の付近には学校や病院が多く配置されている事が直ぐに判った。
「さて、と。今日はどこに行けるかな?」
父の実家は海に近い場所にあり、外へ出れば、全く同じとは言えないけれど懐かしい潮の香りが迎えてくれる。潮風と照り付ける太陽に誘われ、辺りを観察しながら足を進め、目的も無く、ただ先へ先へ。海岸線に沿って造られた道路の上を――歩き続けたのが間違いだった。焼けたアスファルトは体力を奪い、水分補給をしなければヤバイかもと思って辺りを見渡せば……。
「う、わぁ…………ここドコよ?」
場所を確認をしたかったわけじゃない。妙に辺鄙なその場所に驚いたんだ。店や自販機が一つも見当たらない上に、民家ですら遠くにしか見えない。いや。そもそも民家なのかすら判らないくらい、本当に申し訳程度に建物の端が見えるだけ。仕方なく堤防を下りて、その場所を目指す。シーズン中なのに人気の無い砂浜に足跡を残しながら、サクサクサクサク。やっぱり辺りを観察しながら。それで気付いた。この辺りには開けた場所が無い。多分、造ろうとしても難しい地形なんだろう。
「もしかして、……無人?」
漸く辿り着いたその建物の裏手で、私は肩を落とした。くすんだ窓ガラス、錆び付いた配管。表に回ってみても似たようなもので、それでも少し先に見えた自販機に安心して先を急いだ。その先のカーブを抜ければコンビニがあると判り、帰りの心配が要らなくなった所で、私は元来た道を引き返す。あの静かな場所で泳げないだろうか?そう思って。
『Diner、West Beach?ふぅん、食堂だったんだ、ココ。――え?』
その建物はやっぱり無人のようで、碌に手入れもされていないのが見て取れた。色褪せているとはいえ派手な外装と粋な造り。その中で、その白い募集広告の存在だけが、やけに目立って見えた。
「……桜井、かぁ」
あの二人は、もう私の事なんて忘れてしまっているだろうか?遠い昔の事のように思える彼等と過ごした時を思い出して、不意に目頭が熱くなる。知っていたのは携帯のナンバーとアドレス。それと、接した時間分の彼等だけ。それでも、私にとっては初めての友達と呼べるあの二人。最後に会ったのは、秋のミーティングだったけ。あの時は、また冬に!と言って手を振って別れた。でも、運悪く受験日と重なった冬のミーティングには行けなくて。それから私の状況は、随分変わってしまった。
「…………さぁて、っと!」
もう考えるのは止そう。人が大勢居る場所には行かない方が良い。ミーティングに行かなければ、彼等に会う事は出来ない。私はちゃんと、普通に暮らして行かなきゃならないんだから。会いたい気持ちに蓋をして、私はビーチへと向かった。傾きかけた太陽を見上げて。
◇◆◇◆◇
「父さん!私、はばたき学園受ける。でね、二輪免許と水着が欲しい!」
役所から戻った父にそう告げたのは、はばたき市に来てから一週間近くが過ぎた頃。父は素っ頓狂な声を上げてから、ちゃんと解るように説明しろと言って私の頭を軽く小突いた。
見て見て!とノートパソコンで呼び出した画面は、はばたき学園のホームページ。自由な校風を売りにしている割に進学率は高く、部活動もそれなりに盛ん。カリキュラムやクラス編成を見ても何ら問題は無さそうだし、何より立地が良かった。この家からなら歩いて二十分弱。それは実際に昨日確認済みで、これなら充分に通えるだろうと思い、決めたのだ。
「じゃあ、ここに住むのか?」
「うん、そうしたい。……駄目?」
「いや。売らずに済むなら、その方が良い」
「ホント?やった!」
「で?バイクと水着が欲しいのは何でだ?」
「あ!うん、あのね……」
子供の頃暮らしていた土地とは比べ物にならないけど、ここは近くに綺麗な海がある。ここに住めると判って、もう一方の事を忘れかけていた。泳ぐのに丁度良い感じのビーチを見付けたんだけど、歩いて行くと一時間以上もかかる事。父は当然知っていたんだろうけれど――はばたき市では、他の都市よりも二年早く中型二輪の免許を取れる事。最後に、バイクはアルバイトをして自分で買うからお願い!と言って、両手を顔の前でパン!と合わせた。
「水着は構わんが、……アルバイトは駄目だ」
「どうして?バイク、乗っちゃ駄目?」
「そうじゃない。まったく……蛙の子は蛙ってのは本当だな」
苦笑いを浮かべた父は、しょっちゅう家を空ける自分の影響を受ける上に、独学での受験勉強に加えてアルバイトまで始めたら、その内身体を壊してしまうんじゃないか?と言って――。
「え……、良いの?ホントに?!」
「ああ。俺はローズのシャドウを貰うさ」
「母さんの――」
「あれもいい加減、走らせてやらないとな」
嬉しくて、思わず父の首にしがみ付いた。ありがとう、父さん大好き!とそのまま叫ぶと、耳が痛いと文句を言いながらも、父が笑うのが判った。赤ん坊の頃から何度も乗せてもらったのに、上京する時に持って来て以来、一度も走る事のなかった母のバイク。もう二十年以上も前のマシンだけど、昔からいつも完璧に整備していると言って、父が自慢げに笑う。あれは750だからな、お前は俺のお古で我慢しとけ。と言って、また笑う。そうして母の愛車は父に。父から譲られたシャドウ400は、私の愛車になった。

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うーん…やっぱ長くなるなぁ。
あ、因みにバイクは真っ赤なドゥカティとか良いかも…とも思っていたんですが、結局自分の趣味に走りました。
シャドウは80'半ば、シャドウ400は90'後半の典型的アメリカンスタイルです。
橘朋美
FileNo.003 2012/8/5 |