高校受験が終わって卒業後の進路も決まり、最後の三者面談の後で父が言った。本当に良いのか?と。都内でも屈指の進学校へ行くつもりだという答えに担任は喜色満面だったというのに、父は疑問を抱いていたのだろう。一年前、最初の三者面談があった日と同じように――。自分の進みたい道を選べ。それがどんな道だろうと、父さんは応援するぞ。そう言って、軽く叩くようにして私の頭を撫でながら微笑んでくれた。
正直に言えば、本気でその高校に行きたいと思っていたわけじゃない。けれど、何をしたいという夢があったわけでもない。だから、一番楽な道を選んだだけ。自分の成績で無理せず卒業まで過ごせるだろう高校、家から通うのに便利な距離にある場所を。そうすれば、これから先の三年間は、これまでの三年間のように過ごせると思っていたから。
二月ももう終わりという、卒業式を間近に控えた日の午後。既に進路の確定している生徒は自由登校期間に入り、私も三時間の授業を終えて家に向かっていた。平日の昼間――三月半ばまでの休暇をのんびり過ごしている父が待つ家へ。休み中、どこか遊びに行けたら良いな。けど、父さん疲れてるかな?……なんて考えながら。
閑静な住宅街を歩く人は殆ど居らず、行き交う車も見当たらないその場所で、それはとても奇妙なもののように思えた。扉の開かれた高級セダンに、似つかわしくない風体の男。運転席に頭を突っ込んでいたかと思えば、ボディの下を覗き込むように這い蹲る。溝に嵌っているようには見えないし、エンジントラブルだろうか?そう思いながらその横を通り過ぎようとした時、不意に腕を掴まれた。
「うわっ?!あ、あのっ……ごめん!」
それを振り払って構えると、男は慌てて頭を下げながら早口で捲くし立てた。急に車が止まってしまって立ち往生しているのだけれど、仕事の予定が立て込んでいるので直ぐにでも出発したいのだと。携帯でレスキューを依頼すれば良いのではないかと言えば、それが実は……と頭を掻きながらバッテリの切れた携帯電話を開いて見せる。しかも、携帯が使えなければ電話番号すら判らないと言う。ドジな大人も居たものだと思って警戒心を緩めたのが、そもそもの間違いだったのかもしれない。
「ちょっとした事なら、工具があれば何とかなるかも」
様子を見てみるから鍵を貸してくれと言うと、男は驚きながらもポケットから鍵を取り出す。それを確認して自動車泥棒ではないのだと判断したのは間違いじゃなかったけれど……、自分から罠に足を踏み入れた事には気付けなかった。
「あ、じゃあトランク開けてくれるかな?工具セットが入ってるから」
「トランク?」
どうやって開けるんだろう?レーシングカーには無い機能に首を捻ると、シートの横にある小さなレバーを引けば良いと教えられ、それを確認する為に身体を曲げて下を覗き込んだ直後だった。何か重い物で後頭部を殴られたのだと気付いた時には、もう遅かったんだ。
◇◆◇◆◇
眠る方法としては最悪の部類だったのに、熟睡していたんだろう。気が付いた時には、ビルの屋上らしき所に居た。一瞬、何故こんな所で寝ていたんだろう?と考えたけれど……首を捻ると同時に感じた痛みが、全てを思い出させた。そこからは傾いている太陽がよく見えて、同時に騒がしい音がたくさん聞こえて来る。聞き取り辛い雑音交じりのそれは、きっと警察無線なんだろう。なのにあの男の姿は見えず、今この瞬間、ここで何が起こっているのか。皆目検討が付かなかった。
身体を起こそうとしても手が――と言うより、親指が後ろで拘束されていて自由に動けない。ギッチリと締め付けている硬さと手の甲に当たる端の感触でそれが結束タイだと気付いても、どうにか出来る代物じゃない。幸いと言うか何と言うか、足は自由に動かせたし、後頭部と両手の親指以外に痛みや違和感を感じる所は無い。肩と膝を使って何とか壁を背に立ち上がると、意外と近くから声が飛んで来た。
「っ!!」
そこへ駆け出そうとしたけれど……その声に弾かれて振り向いた男は、父さんと私の間に居た。物陰に居た警察官達が姿を現したのは、事態が急変したと知ったからだろう。何人かの刑事らしき人達が父さんを後ろに下がらせようと羽交い絞めにするのが見えて、上手くバランスが取れないまま後退りするしかなかった私は――。
「僕は捕まったりしない!絶対にだ!!」
身体が引き摺られる。首元に当てられた刃物が、その振動でチクリと肌を裂く。一歩間違えば、それで咽喉を引き裂かれるかもしれない。そんな恐怖に全身を支配されて何の抵抗も出来ないまま、不自然に破れたフェンスの向こう側へと連れ出されて…………私は落ちた。狂ったように笑い、叫ぶ男と共に。
父さんの絶叫も周囲の雑音も掻き消えて、奇妙な感覚が消えた途端、大きな衝撃と圧迫感に襲われる。嫌な音が身体中に響いて、周囲の雑音が一気に押し寄せて……。それは、本当にあっという間の事だった。何かを考える暇も無く、何を思い返す事も無いまま、私は地面に投げ出されたのだ。
全身が痛くて身動き一つ出来ないのに、閉じる事すら出来なかった瞼の奥だけは動かせて。視界を埋め尽くしているそれが何なのか理解した時、強烈な吐き気に襲われた。それは――、落ちたスイカみたいに弾けたそれは…………ほんの少し前まで人だったモノ。込み上げたのは涙だったのか、それとも胃の内容物だったのか。それと共に全身を襲った激痛は、私に何時間振りかの声を上げさせた。
◇◆◇◆◇
規則正しく動く機器類が発し続ける稼動音と、目覚ましには成り得ないだろう小さな電子音だけが響く中で、私は意識を取り戻した。視界に入る物の殆どが白くて無機質なその空間は、まるで大きな棺のように思えて……。
「――っ!!」
半覚醒状態だった頭がクリアになった途端に、身体を起こそうとした私は激痛に襲われた。それもそうだろう。高層ビルではなかったとはいえ、あんな高さから落ちて無事に済むわけがない。患者の変化を察知したナースが駆け込んで来るなり、起き上がっては駄目だとベッドへ押し付けられる。コールで駆け付けたらしいドクターは、家族を呼ぶようにと指示を出しながらモニタをチェックして。
「安心しなさい、ここは病院だからね。お父さんも直ぐに来てくれるよ」
穏やかにそう前置きをした後で、私がどういう状態にあるのかを簡単に説明してくれた。左大腿骨と肋骨二本の骨折。うち一本の肋骨が肺に刺さって、右肺血胸を引き起こしていたのが一番の重症だったという。首に出来た切り傷はどれも軽いもので、もう殆ど完治していた。他にも、落下中街路樹に当たった事で多くの擦過傷を負っていたらしい。迅速な手術のお陰で命に別状は無く、術後の脳波や心電図にも異常は見られなかったそうだ。
「……、良かった。本当に――良かった」
ノックもせずに飛び込んで来た父は、まるでホームレスのような出で立ちだった。ボサボサの髪、やつれた顔、中途半端に伸びた髭、そして……腫れた瞼と充血した目。私がICUに入れられてから十日も過ぎているという今の今まで、きっと碌に眠る事も出来なかったのだろう。私の頭を抱いて、何度も何度も繰り返す。涙が零れている事を気にもしないで、掠れた声で。ただ、良かった――と。
明日の様子を診てから、幾つかの検査を終えるまでは絶対安静だと言い渡された私を残し、ドクター達は病室を出て行った。詳しい説明をしますので……と言われた父は中々ベッドから離れようとしなかったけれど、また明日来るからと言って名残惜しそうに私の頭を撫でてから、背中を向けた。
「父さん、」
何か言おうと思って呼び止めたわけじゃなかった。何を言っても足りないんじゃないかと思った。振り向いた父の表情は、普段からは想像も出来ないほど悲痛なものだったから。
「どうした、何か欲しい物でもあるのか?」
無理やり浮かべられたのが判る笑顔が痛々しくて、母が死んでしまった時でさえ、――少なくとも、私の前では泣かなかったのに。そんな父に向かって、何を言えるだろう?そう思った所で、涙が頬を伝って落ちた。
「?!どこか痛いのか?それとも恐いのか?」
慌てて駆け寄る父に、私はただ微笑んだ。これからは、もっと強くなろう。二度とこんな風に、父さんを悲しませたくない。だから私は、もっと強くなる。そう決めて、不安や恐れを閉じ込めて。
「大丈夫。あちこち痛いけど、恐くないよ。でも、」
「でも?なんだ、何でも言ってみろ」
「明日はちゃんと、髭剃ってから来てね?」
父さんのほっぺ、ザリザリで痛かったんだから。そう言うと、父は呆気にとられていたけれど、直ぐにいつものように笑ってくれた。優しく、大らかに。
◇◆◇◆◇
その後の入院生活は、三ヶ月以上も続いた。レースが近付けば父の帰りは深夜になる事も多く、予選の準備期間から本戦終了後の数日までは地方へ出張状態。近くには世話になれる親類も無く、自宅療養に切り替えるには不安が多かったからだ。
大部屋に移って、松葉杖を使うのにも慣れた頃だったと思う。見舞いに来るなり、父が言った。大事な話がある、と。その時、とても暗い顔をしていたのを覚えてる。何事かと思えば、進学する筈だった高校から呼び出しがあったのだそうだ。
計画性の見られなかった常軌を逸した犯人の行動は猟奇的と取り上げられ、被害者は未成年である事から詳細については伏せられている。
暇潰しに読んでいた新聞記事を思い出し、私は笑った。心の中で、嘲るように。マスコミが取り上げずとも、人の口に戸は立てられない。噂は尾鰭が付き、それは時に人を追い詰めるのだ。
顔を見た事もなく、名前や性別すら知らない私の担任と学年主任は、随分回りくどい言い方をする人間だったらしい。事件の記憶がある内は他の生徒や保護者の反応も過敏ですし、入学式からずっと欠席が続いている今の状態では出席日数も危ういでしょう。本人の為にも、他校に編入する事を考えてみた方が良いのでは?――と。後で知った事だけれど……入学金や初年度の授業料など、既に振り込まれている一切の費用を返却するとまで言われていたというのだから、呆れてしまう。
「お前はどうしたいんだ?」
聞き終わっても暫く黙ったままでいると、父さんは静かに聞いた。このまま黙っていれば、きっとあの時のように言うのだろう。自分の進みたい道を選べ、それがどんな道でも応援してやる――と。だから、そう言われる前に答えたんだ。
「私、辞める。留年してまで通いたい学校じゃないし」
それは事実だったし、何の迷いも無く口にする事が出来た。その決断が、後に私の高校生活を一変させるなんて――、夢にも思わずに。

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はば学入学までもうちょい!なんですが、桜井兄弟の方も書いておきたい。
つまり……いつもの如く、いつになるかは判らない〜と。
橘朋美
FileNo.002 2012/8/4 |