「こんにちは、です」
呼び鈴に返された標的の声に答え、カメラの向こうに微笑みを向ける。これから暫く――少なくとも数時間は、誰の助けも借りられない。借りるような事態に陥ってはならない。そう自分に言い聞かせて前を見る。別荘地の外れにある森を背にした私は、湖に抱かれているかのようなその敷地を観察しながら呼び鈴を押した。
簡素な門の向こうに見えるのはどちらかと言えば地味な造りで、これがあの矢野崎氏の別荘なのだろうか?と思うほどに小さな建物だ。それに見合ったテラスは湖に面し、その奥にある筈の中庭にはせり出した階上のバルコニーが。邸の裏に回ればこじんまりとしたガレージがあり、今頃それぞれに三人が潜んで待機している筈。平面図で確かめたその敷地内を確認していると、間もなく正面の一枚扉が開け放たれた。
「やあ、よく来てくれたね。荷物はそれだけかい?」
招き入れられた邸内は、どこか古めかしい印象がある。華美な装飾や高価な家具などは置かれておらず、しかし粗末な品は一つも見当たらない。外観からも感じられたけれど、ここは――優雅にバカンスを楽しむ為ではなく、ただ静かに過ごす為に造られたかのような――そう。別荘というより、隠れ家と呼んだ方が相応しいような気がした。
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何故か違和感を感じる。客室に案内された私は、それが何なのか判らずにいた。盗聴器は送信のみに設定されているのを確認済みだし、ロックが外れたとも思えない。キッチンでは食事の支度をしているのだろう、階下から食器の触れ合う音が聞こえる。窓の外では木々がざわめき、時折り微かな水音が耳を掠めて行く。燃え落ちるようにして沈む夕陽が照らしだす室内は、どこか懐かしい雰囲気を醸し出して――。
「気に入ってもらえた?」
「ええ、とても。素敵なバカンスになりそう!」
身動きせずに黙っている様子を、景色を見つめて感動していると思ったのだろう。スカートの裾を翻して無邪気さを乗せた声で答えると、先ずは食事にしようと言って先を歩き始めた矢野崎は満足げな笑みを浮かべていた。思考を中断された私が違和感の正体に気付いたのは、夜空に煌々と輝く月が浮かんでから暫く後。規則的なノック音と共に訪れた、コックらしき人物と彼の遣り取りを耳にした時の事だった。
「失礼致します。矢野崎様、私どもはこれで」
「ああ、ご苦労様。明日は――そうだな、七時に頼むよ」
不自然な会話、頭を下げて出て行った男。それを見遣った後、これでもう二人きりだよと囁く矢野崎。そう、普通なら何人かの使用人が居るものだ。なのに私は、この屋敷に招かれてから今の今まで……標的以外の人間を一度も目にしていなかった。
「――そんなに警戒しなくても大丈夫だよ」
席を立って振り向いた私を迎えた矢野崎は、表向きの華やかな笑顔を消していた。そして変わりに含みのある厭らしげな笑みを浮かべ、口調は私を追い詰めようとするものになって行く。
「君も、判っていてここへ来たんだろう?」
おかしい。この男が事を起こすのは、女をモノにした後か、女が自分の言いなりになった頃だ。私はまだ、そのどちらでもない。それに、矢野崎の方でも準備は整っていない筈。なのに何故、こんな状況で?
「まあ、僕が君の立場だったとしても同じ事をするだろうけど」
千秋さんの集めた過去の情報と、睦の集めた現在の情報。その二つから蓬生さんが導き出した、幾つもの可能性。そのどれにも当て嵌まらない状況が生まれてしまったのだという結論に達したのは、彼に手を伸ばされたその時だった。
「……矢野崎さん、一体何を?」
「君は、どこまで知っているのかな?」
何の事だか判らない。そんな表情で見詰めれば、その目はもう、笑ってなどいなかった。相手の優位に立ち、駆け引きの先手を取ったとばかりに向けられる視線。それに怯んだりすれば、私は――ううん。私達全員が危うくなってしまう。それだけは避けなければ。そう考えた私は、賭けに出る事にした。
矢野崎が何を言っているのか判らない以上、情報を引き出さなくては話にならない。大丈夫。私達の会話は、全てあの三人が聞いているのだから。恐くなんてない。いざとなれば、彼がすぐ近くに居るのだから。
「……私が知っている事なんて、ほんの僅かですわ」
「そう。じゃあ、その僅かな情報だけを頼りにここへ来たんだ?」
小さな溜息と共に諦めたような口調で零せば、まるで小さな子供をあやすみたいにして彼が尋ねる。私が何らかの情報を元に、ここへ?一体、何が関係しているのか。少なくとも、闇サロンではないのだろう。もしそうなら、こんな穏やかな会話を続けられる筈がない。
「…………」
「ふふっ。それで父より僕を選んだというんだから、大したものだね」
その優越感に満ちた小さな笑い声と言葉からして、どうやらこれは、私と矢野崎家とが関係しているのだと知る。けれど、私には心当たりが無い。花園氏と名を張るほどの政治家で家柄も申し分の無い矢野崎家と没落寸前の家とでは、地位や身分といっただけでなく、事業や私生活の面でも関わりを持つ事など無いのだから。ましてや個人的に矢野崎親子を天秤にかけるなんて事――。
どれだけ考えても答えを見付けられないままの私は、口を閉じているしかなかった。けれど、その先。自慢話を聞かせるかのようにして続けられた矢野崎のお喋りは、私に全ての答えをくれた。
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年の離れた兄と妹は、まるで正反対の人間だった。だが、頑健で社交的な兄は病弱で人見知りな妹を可愛がり、また両親も二人を同じ子供として愛し育てた。家を継ぐ為、家長として立つ為に時に冷徹ですらあった兄は、いつしかその役目を果たすようになる。長く療養先で過ごすようになっていた妹が結婚したい相手が出来たと告げたのは、その頃だった。
身分も家柄も低いその相手は悪い男ではなかったが、未だ身体の弱い最愛の妹を嫁がせるには不満がある。数年前に連れ合いを亡くした事で、父も過保護なまでの条件を呑ませようとしていたのだが――。
「お祖父様が亡くなれば、叔母様にも相続権があったわけだし」
この人は、何を言っているんだろう。私は、家は、只の……。矢野崎家の財産なんて何の関係も無いのに、どうして?
「叔母様が、……いや。君のお母さんがどこまで話したか知らないけど、」
母様が、矢野崎氏の妹?もう一人のお祖父様が居て、私がその財産を狙ってこの人に近付いた?そんな――そんな馬鹿な話!!
「一生僕に逆らわないと誓うなら、君を花嫁として迎えてあげるよ」
機嫌の良い微笑みを浮かべて取られた手を引く力に逆らう事すら思い付けずに、されるがままだった私の身体が矢野崎に抱き締められようとした寸前。その声は響いた。闇の中、心の奥底に。
瞬間、私は駆け出していた。何の躊躇いも無いまま。

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さてさて、ここから先は個人編です。全員分を書き終えたら纏めてUPしますので、季節が変わってからになりそうですが。わは…。
橘朋美
FileNo.006_05 2012/2/17 |