Princess of Darkness

6 - M



!こちらへ!!」

静かな夜風を招き入れる窓から騒々しく飛び込んで来たのは、不機嫌さを最大限に表している睦だ。表情といい声音といい、こんな風に激情を顕わにした彼を、私は過去一度たりとも見た事がなかった。こちらに伸ばされた手は驚くほど強く私を抱き寄せて、もう一方の手が銃を構える。

「なんだ、誰かと思えば。君は、自分の立場を判っていないのかな?」

その声で、彼の身体が強張るのが判った。それとは逆に、自分の優勢は揺るがないと言わんばかりに笑みを深める矢野崎。狙いを定められているというのに、彼は余裕の笑みを絶やさないまま迫り来る。一歩、また一歩。まるで楽しみを噛み締めるようにしてゆっくりと。

状況はかなり悪いけれど……まだ駄目。この場から逃げるには早過ぎる。少なくとも、彼を孤立無援に出来るような証言を手にするまでは。そうでなければ依頼は失敗に終わり、私達全員の立場が危うくなってしまいかねない。現状を打破する策はあるのか、この状況を把握している筈の彼等はどう動こうとしているのか。せめて睦の意見だけでも聞けたなら。そう思った時、聞き取れるかどうかの小さな呟きが落ちて来た。

「俺は……」

「睦?」

胸元で服を掴む両手に伝わる緊張が、僅かに見上げた目に映る彼の表情が、言いようも無く不安を煽る。そういえば――いつもなら威嚇射撃をするなり何なりしているだろうに、睦はさきほどから身動き一つしないまま。けれど、それも無理ないのかもしれない。相手は各界に大きな影響力をもつ名家の長男、つまりは矢野崎家の時期当主なのだ。その権力を持ってすれば、地位や権力を持たない人間など活殺自在。当然、大した家柄でもない没落家の者とて似たようなものなのだから。

「ふうん?どうやら噂も馬鹿にしたものじゃないようだね。家の令嬢は、長年付き従っている影を大層気にかけているらしい」

随分と抑えた表現に止められたその噂は、私の耳にだって聞こえていた。弾かれたように顔を上げた睦は、それをどう思ったのだろう。いつもいつも、幼い頃からずっと傍に居るしかなかった私の事を……どう思っているのだろう。知りたい。だけど、知るのが恐い。

「そんな男とは比べられるのも不愉快だけど……、」

比べる?何を言っているのだろう。睦とこの男を?どうして?そんなの比べるまでも無いのに、何故この男はそんな事を言うのだろう。

「君はどちらを選ぶんだい?」

間近に迫った矢野崎の顔には僅かな剣が差し、ゆっくりとした歩みはそこで止められ、最後通牒のようにして傲慢な言葉が響く。

「祖父はもう長くないし、父も遠からず一線を退く。近く政財界を操るようになるのも、矢野崎の実権を握るのも僕だ!!」

その言葉が、こんな時に余計な事を考えそうになった私を一気に現実へと引き戻してくれた。内心で皮肉なものだと呟きながら、私は合図を送る。これで依頼は達成出来たのだから、もう何も心配する事はない。けれど――そんな風に安心していたのは、どうやら私だけだったようだ。

■□■□■

どれだけ身近に居られようと、高が使用人の子。幼馴染みといえども、自身も使用人でしかないのだ。身分が違う。そんな事、誰に言われずとも理解している。そう、理解していた筈なのに。

「判りました。……あなたの言うとおりにします」

そう言って、抱き寄せていたの身体が離れようとした時。俺は考えるより先に行動していた。周囲の状況も、目に入っていなかった。

「駄目です!俺が相手じゃないのだとしても構わない。だけど、好きでもない男のもとへ嫁ぐなんて……あなたも嫌だと言った筈だ!」

「あ、の…………ねぇ睦、落ち着いてちょうだい?」

「落ち着くのはあなたでしょう!本気であの男の言いなりになるつもりなんですか?それで幸せになれると思っているんですか?!」

いくら事業の為、そこで働く従業員やその家族の為とはいえ、旦那様だってそんな事を喜ぶ筈が無い。『は妻の残してくれた唯一の宝だ。あれが幸せでいられなければ、私は不幸でしかいられないだろう』もう何年も前。あの荒れ果てた庭で、を傍で守ってくれと言われた時。普段は寡黙な旦那様がそう言った。今の俺の気持ちと、よく似ている。

華族の令嬢と、その使用人。どれだけ好きになっても手の届かない存在。この気持ちを口にすれば、遠ざけられてしまうかもしれない。そう思うと――口が裂けても言えない。言ってはいけないのだと、ずっと我慢していた。せめてその幸せな姿を近くで見守れればと、未練がましく想い続けて来た。けれど、一度堰を切った言葉は中々止まらなくて。

「おい、お前達。痴話喧嘩はいい加減にしろ」

「いっ、?!」

「ほんまやで。見てるこっちが恥ずかしなるわ」

俺の頭を叩いたのは、恐らくその手にある丸められた新聞だったのだろう。うんざりした顔の東金と呆れ顔の土岐が、そこに立っていた。その後ろには、縛り上げられた標的が苛立たしそうに…………。

「っ!その……すみません。俺は、」

漸く状況を理解した俺は、何を言えば良いのか判らずに口篭るしかなかった。『あなたの言うとおりにします』それは、インカムの向こうから発せられる依頼達成の合図だったのに。あの時、直接それを耳にした俺は……。自分の馬鹿さ加減を呪いたい。

「ねぇ睦、――――?」

軽く上向けた眼差しで、いつものように問い掛ける。その先を聞きたいのか、それとも聞きたくないのか。許されるのなら、その言葉を聞きたい。許されないのなら、その言葉は聞きたくない。返事をしながらも混乱する思考と気まずさに負けた俺は顔を背けてしまったのだけれど、彼女はそれを許してはくれなかった。

「駄目よ、睦。ちゃんとこっちを見て、私の質問に答えてちょうだい」

そして哀しいかな、俺はこの人の声に逆らう術を持っていない。甘えるでもなく、命令するでもなく、その声で告げられれば、もうその通りにするしかない。出来ればこの先――たとえが誰かの元へ嫁ごうとも、一生彼女を見守っていたかった。この結末を呼んだのは他でもない自分自身で、こうなってしまっては、もう彼女の傍になど居られる筈もない。去来する様々な思いは心を乱し、せめて最後に彼女の姿を瞼の裏に焼き付けておこうと思うのに、滲む視界が邪魔をする。

「ねぇ睦、もう一度だけ聞き直すわ」

俺は一瞬、耳を疑った。俺がをどう思っているのかなんて……彼女は、さっきまでの言葉を聞いていなかったとでも言うんだろうか?それとも、それを無かった事にしようとしているのだろうか?真意を測りかねて無言のままその目を見詰めれば、彼女は少し拗ねたような口調になって言い募る。

「ただの幼馴染み。家のお嬢様だというなら諦めるわ。でも、」

周囲に認めてもらえないのだとしても、彼女が許してくれると言うのなら。恩知らずと罵られても、親不孝者と呆れられても構わない。抱きしめた腕の中にあるこの幸せが消えずにいるのなら、それだけで。

「子供の頃から、ずっと……好きです。俺は、あなたを愛してる」

■□■□■

あの依頼を最後に、私達はエージェントを辞めた。資金的な問題は無くなったのだし、これから先はの事業を安定させる事に時間を費やす事になるだろうからと、闇サロンのマダムこと叔母様にも勧められて。

矢野崎家との事は父様にも相談してみたのだけれど、『お前の好きにしなさい』と一任されてしまった。それならば、と――私はあの時思ったとおりにしようと決め、矢野崎氏に面会を求めた。あの依頼の本当の依頼主も、破格の報酬を提示したのも伯父様だったと知ったのは、矢野崎家を訪問した時の事。

勘当したご長男の事では心を痛めていらしたけれど、家督は年若い次男に譲るから心配するなと仰って、伯父様は笑ってらした。病床に臥していたお祖父様は、それでも私と会えた事を喜び『娘とよく似た美しい孫娘が出来た』と言って微笑んで。一回りも年下の従弟は、私を『姉さん』と呼んで慕ってくれている。父様も、いずれ近い内にご挨拶に伺う事になるだろう。長年疎遠にしていたとはいえ、親族と呼べる人達の元へ。そして私は――。

。そろそろ時間ですが、支度は済んでいますか?」

「ええ。仕事に関しては、睦以上にしっかりしているのよ?」

父様の秘書として働き始めた彼と共に、今日も視察へと出かける。かっちりとスーツを着込んだ睦は未だに緊張気味で、それがあの時の事を思い出させる。笑ってはいけないと思いながらも堪え切れずに笑みが浮かべば、またかと言うように顔を顰める様子も可笑しくて。

「どうせまた、あの時の事を思い出しているんでしょう?」

「ふふっ、ええ。だって、忘れられない思い出だもの」

あの依頼が片付いて闇サロンの件も落ち着いた後、睦の父と父様に話した。二人の仲を反対され、父様も家も捨てる事になったとしても付いて来てくれるか?と。悲壮なまでの表情で告げられたのは、その前夜。たった一人しか居ない肉親なのだから、認めてもらいたい。父様にも、芹沢にも。でも……もしも反対されて引き離されてしまうくらいなら、と。胸に頬を当て、両腕を背中に回し、私はただ頷くだけだった。

■□■□■

「――――睦、お前……、」

あの時の事は、よく覚えてる。が話し終えた途端、怒りに震える声を搾り出した父と、呆れて溜息を零した旦那様と。二人を前にした俺は、頭を下げて声を振り絞った。

「お嬢様と――と結婚させて下さい!!」

父には責められるだろう。旦那様には反対されるだろうと覚悟していた。それでも俺は、二人に認められてを幸せにしたかった。家族を捨てるなんて悲しい真似を、出来る事ならさせたくなかった。でも――もしそれが出来ないのなら、その足でを攫うつもりでいた。

「…………何故、もっと早く言わなかった」

「父様……?」

深い溜息と共に告げられたのは思いもしなかった言葉で、譲れない条件として提示されたのは、三つとはいえ断る理由も見付からないような事で。俺はただ頭を下げていた。

「そんな、お嬢様を……宜しいのですか?旦那様」

「良いも悪いもあるまい。芹沢の名を奪う事になるが……許せよ」

その遣り取りに顔を上げれば、涙を流して頭を下げる父が見えた。そして、それを宥めるの姿も。

それから数日で、俺は旦那様の条件を満たした。一つはの入り婿になる事。一つは旦那様の秘書として事業を学ぶ事。最後の一つは、家族としてこの家で暮らす事。そして今――。

「まったく……っと、急がないと!」

「あら、本当。早く行かないと、お義父様に叱られてしまうわ」

この台詞を聞けば、父はいつもの如く慌てるのだろう。それを見た義父はまた、早く慣れろと呆れたように言うのだろう。その横で、は光り輝くような笑顔を見せるのだろう。そして俺は――の手を取り、いつものように言うのだ。

「では、行って参ります」

幸せを手にして、幸せの待つ場所へ帰る為に。





************************************************************

Princess of Darkness芹沢睦編。
やっぱ台詞が難しいですね、芹沢は。

当初は全員分纏めてUPするつもりだったんですが。
どーーーしても他二人分が書き上げられないので、取り敢えず芹沢編だけフライングで。





橘朋美







FileNo.006_06m 2012/5/17