Princess of Darkness
3


「お嬢様、何か飲み物を用意して頂きましょうか?」

「……………………」

予定より少し早い時間に訪れたこの屋敷の一室で、俺は時間を持て余していた。身分の違いというものを思い知らされる場所になど、何度足を運んでも慣れる筈がない――なのに、この人と来たら――。暫くの沈黙を破って、俺は大袈裟に溜息を吐く。そして、ご機嫌斜めな素振りの幼馴染殿を宥める為に口を開いた。

「……咽喉が乾いているんじゃありませんか?

「ええそうね、睦の淹れた紅茶が飲みたい気分だわ」

破顔一笑というのは、こういう事を指すんだろう。先ほどの不機嫌さは一体どこへ?と思うほどの笑顔で、いとも容易く俺を喜ばせる言葉を口にする。仕える主を呼び捨てるなんて。俺が本来なら許されるはずの無い行為をするのは、ただその幸福を得る為だけに。

調理場へ続く扉をノックすれば馴染みの顔が現れ、いつものヤツかと笑いながら中へ通してくれた。この屋敷で使われる茶葉は、種類が少なくとも質が良い。俺の淹れた紅茶を飲みたいと言うに飲ませるのだから、何の不足も無かったが……。先ほどまでのマダムとの会話で随分悩んでいるようだったし、少し甘めにするのも良いかもしれない。

「……今日はミルクティーにしておくか」

は昔からこのミルクティーが好きだから、これを飲めば少しは気が晴れるだろうし。そんな事を考えて、ミルクと水を半量ずつ計量カップに注ぐ。鍋に移して火にかけたそれを観察しながら、俺は、昔の事を思い出していた。

それは、幼い頃の偶然だった。夜中――ミルクティーを手にした俺が部屋へ戻る途中、耳を掠めた微かな声。それを無視する事が出来なかった俺は、見付かれば酷く叱られると判っている場所に足を踏み入れた。

数年前まで四季折々の花が植えられていた花園は見る影も無く寂れて、手入れのされなくなった東屋には、無造作に蔦が絡むばかり。その脇にある段差に座り込んだだけが、月明かりを受けて美しく浮かび上がっていた。

「…………誰?」

どう声をかけて良いのか判らないまま立ち尽くしていた俺は、こちらを向いたの元へ歩いて行くしかなかった。泣いていた事を悟られないようにと、目を擦ったのだろう。腫れ気味の目が少し赤くなっていて、それがとても痛々しく見えた。

「睦……どうしてここに、」

「……すみません。でも、夜は寒いですから。これを――」

あの時、俺が少しでも大人だったら。せめて少しでも、慰めの言葉を口にする事が出来たなら。もっと上手く、もっと早くにを泣き止ませる事が出来たのかもしれない。だけど、十にもならない子供の思い付いた事といえば……。

「……これなぁに?」

「ミルクティーです。俺が淹れたから、美味しくないかもしれませんが」

何も言わないまま両手でカップを傾けて、小さな咽喉がコクリとそれを飲み下す。美味しいと呟いたは、白く上る息の向こうで微笑んでいた。そして翌日の朝、俺は旦那様に呼ばれて――。これまで使用人が誰一人として許可されていなかった小さな庭へ立ち入る事を、許された。

「おい!ぼうっとしてちゃ吹き零れるぞ?」

「え?あ!……っと――」

危ない所だったなと苦笑いを浮かべ、縁の泡立ち始めた鍋に茶葉を加える。そうだ、もっと気を付けないと。表面が盛り上がった瞬間に火を止めて温かなティーポットに注ぐと、柔らかな香りが立ち上る。それを閉じ込めるように、蓋をしてから二分半。ティーセットを乗せたワゴンを押し、――溢れさせてはいけない思いに固く蓋をしたまま――の待つ部屋へ。

■□■□■

あれは――?

扉の前に立っていたのは、二人の男だった。どちらも見覚えがある。一方は、の手を取って口付けていた男。昨夜見たばかりなのだから、間違う筈も無い。だが、もう一方は……。どこかで見た覚えがあるのは確かだが、記憶が曖昧で思い出せない。それでも――マダムの闇サロンへ足を運ぶ事が許されている人物ならば、敵でない事は確かだろう。

「失礼します」

ある種の不安を覚えはしたが、危険は無いだろうと判断した俺を扉の向こうで待ち受けていたのは――。ゆっくりとお茶の時間を楽しめるとはとても思えない、険悪な雰囲気だった。

「こんにちは、闇姫さん。また会えて嬉しいわ」

――?!まさかお前が闇姫だったとはな」

「ごきげんよう、ミスター名無し。それと――相変わらず失礼な千秋さん」

今度こそ本気で機嫌を悪くしたが口にした名前を聞いて、漸くその男の事を思い出した。もう十年近くも前の事だったが、あの時の事はよく覚えている。と俺がこの世界に足を踏み入れる切っ掛けになった、あの夜の事を。だが、顔を見たところで思い出せなかったのは当然だ。俺は直接あの男を見た事が無かったんだから。

「嫌やなあ。ミスターなんて堅苦しい呼び方せんといて。マダムに聞いてへん?俺は土岐蓬生。蓬生さん、って呼んでくれたらええよ」

「…………私、と申します。昨夜は失礼致しました、蓬生さん」

「なんだ、昔と違って随分としおらしい態度じゃないか。だが、あの時も相手が俺じゃなければ機嫌良さそうに笑ってたくらいだ、」

「あなた――、また昔のように頬を打たれたいのかしら?」

喧々囂々の嵐に割って入る事の出来ない俺は――。漸く揃った三人を静かにさせる事の出来る唯一の人、マダムが部屋に入って来るまで待つしかない。そう諦め顔で溜息を吐いた後、あの夜に思いを馳せた。

■□■□■

文武両道を尊ぶ旦那様の計らいで小さな頃から様々な教えを受けた俺は、がどんな所へ行くとしても護衛として付き従っていた。数年前から旦那様の事業が思わしくない事は噂になっていて、それを立て直す為に一人娘の縁談を調えようとしているというデマも。

「芹沢、あなたは車で休んでなさい。ホールへは睦を連れて行くわ」

「畏まりました。では、お気を付けて行ってらっしゃいませ」

長年に亘って旦那様の運転手を勤めて来た父は、もう随分前から家に一生を捧げると決めていた。生まれて直ぐに母親を失った俺を育てる為に、旦那様と奥様から受けた恩。それを返すには、どれだけ働こうと足りないと――。真剣な目で、何度聞かされた事か。

「じゃあ、ここで待っていてちょうだい。あまり遅くはならないわ」

「はい。何かあれば直ぐに声を……」

くすくすと笑いながら俺の言葉を遮って、――判ってるわ――とだけ言って表情を変える。自宅では滅多に見せない、近寄り難いくらいの令嬢の顔が出来上がり、扉の先へと消えて行く。本当なら、気安く近寄る事すら出来ない立場の人。それが偶々、旦那様や奥様の計らいを受け、幼馴染として育ち、こうして仕えている。何よりが、それを望んでくれているんだ。幼い頃からずっと――傍に居る事を。

それから暫くして。開け放たれた扉の向こうから姿を現したのは、サロンの女主人――の叔母にあたる女性だった。客を持て成す立場にある花園夫人が中座するなんて、一体何が?そう思ったが、考える暇は与えられなかった。

「あなた、さんの所の子だったわね?直ぐに車を呼びなさい」

「お嬢様に何か――?!」

「何かあったのは、あの子にではないわ。良いから車を呼びなさい」

「ですが!!」

「心配なら、あの子に直接聞くことね。さあ、早く車を」

コロコロと楽しそうに笑う彼女は、有無を言わさず話を切り上げた。これ以上事を荒立てるわけにも行かない。俺は父に連絡し、ホールの外に車が着けられる少し前。

「帰るわ。芹沢を呼んでちょうだい」

一体、何があったのか。怒りを露にしたの顔からは、令嬢の仮面が剥がれ落ちようとしていた。今夜のパーティーは、の社交界デビューも兼ねたものだ。だからこそ花園夫人の誘いを断る事は出来ず、渋々ながらにも足を運んだのだから。

「どうしたの?早く、」

「先ほど花園夫人から言い付けられました。直に――」

「そう、叔母様がいらしていたの……」

それっきり黙りこくってしまったが口を開いたのは――。家に着き、シャワーを浴び、着替えを済ませ、小さな庭に俺を呼び出した時だった。

あの時サロンで何があったのか。何故あんなに怒っていたのか。声を抑えながらも一気に捲くし立てたは、花園夫人が笑っていた理由だけが判らないと言った。

確かに家と花園家の間では、特に親しく付き合いがあったわけじゃない。それでも。の母を姉のように慕っていたという花園夫人は、の成長を見守るようにして連絡を寄越したし、折々に贈り物や祝いの品が届けられて来た。社交界に疎い旦那様では気付きもしなかっただろう今回の件も、彼女の手によって成された事。そこまで可愛がっていたが謂れの無い仕打ちを受けたというのに、何故――。

「私、我慢したわ。大勢の人達から嫌味を言われても、陰口を叩かれても!ちゃんと微笑んで、挨拶だってして……我慢してたのよ!!」

なのにあの男が!と言ったその先は、泣き声に変わってしまっていた。何年か前、カップを渡す事しか出来なかった俺は――。俺はただ、泣きじゃくるを胸に抱き、宥めるようにしてその背中をさする事しか出来なかった。あの時と同じ場所で。あの時とは違って声を抑える事も出来ずに涙を零すは、それでも尚――美しかった。

「ねえ、さん。あなた、その子に武術を習っているのだったわね?」

「え?ええ。父様からも勧められましたし、十の頃から……」

「他にも得意な事はあるのかしら。例えば、乗馬や射撃は出来て?」

翌日。昨夜の非礼を詫びようと花園夫人を訪ねれば、何故か俺まで同席するように言われた。を一人にするよりは……と。俺は、一も二も無くそれに従ったのだけれど……。彼女が現れて直ぐ頭を下げたに向けられたのは、真剣な眼差しと、様々な――理由の判らない質問。そしてその質問の全てが、俺にも向けられた後。

「あの……叔母様、一体何を――?」

「そうね、単刀直入に言った方が良いかしら」

事業を立て直すつもりがあるのなら、闇サロンのエージェントにならないかという誘い。は最初、それを断ろうとしていた。だが――花園夫人の言葉で、その考えを改める事になる。

「それなら、やはり身売りのようにして嫁ぐつもり?」

「そんな事!私――、好きでもない男性と結婚などしたくありません」

裏社会の情報を耳にした以上、俺がと同じようにその道を進む事になったのは当然の事。だがそれは、俺にとっての幸運でもあった。危険の伴う真似をしようというのだから、これまで以上に一人ではという不安がある。それを傍に居て守る事が出来るなら、他の事は大した問題じゃない。その時、は十七才。俺はまだ、十六になって間もない秋の終わりの頃だった。

■□■□■

「本当に――このお二人と協力しろと仰るんですか?」

温かな日差しを受けるその場所で。優雅に紅茶を注ぐ彼女は――ええ、そうよ――と、涼しげに答えた。あちらの二人……いや。土岐という男は、胡散臭いが人を見る目はあるらしい。昨夜の事はの力量を知る為マダムの協力を得て行った、言わばテストだったという。その結果、この依頼の為に闇姫の力を貸してくれと言った。だが――。

「所詮お嬢様のお遊びってヤツか。自信が無いならさっさと帰るんだな」

この東金という男は……何かとを苛立たせ、それを煽るような口を利く。協力しろと言われても、この様子では難しいだろう。確かに今回の依頼を二人で達成するのは難しいが、内輪揉めの原因になるような協力者など居ない方がマシだ。

「千秋、いい加減にしとき。昨日あんだけ言うたやろ?」

「――それだけの依頼なの。あなた方がお互い協力出来ないと言うのなら、このお話は無かった事にして頂くわ」

確かに今回の報酬は莫大な額だ。それでも俺は、この依頼を断っても構わないと思ってた。これまでのように無理の無い依頼を数件引き受ければ、その埋め合わせは済むのだから。だが――それで結構です――と、が口にする事は無かった。

「そう。良いのね?」

「ええ、背に腹は代えられませんもの」

「はっ、可愛げの欠片も……。ええ、こちらも――それで結構です」

その態度の違いを見ると、どうやら東金という男は、花園夫人に何らかの負い目があるようだ。少しばかり畏まった返事をした後、バツの悪そうな表情を浮かべていた。

詳しい打ち合わせは、また後日。別の場でという土岐の言葉でその日は解散する事になり、屋敷を出た俺達は、それぞれ別の方向へに向けて足を進めていた。少しばかりの機嫌が悪くはあったけれど……。

「あなたには――辛い依頼になってしまうかもしれないわね」

その時彼女が呟いていた言葉も、その意味も知らないで。窓の向こうで複雑な表情を浮かべた花園夫人が見送っていた事にも気付かないまま。

「帰ったら紅茶を淹れ直してちょうだいね、睦」

「ええ。それなら、ケーキでも買って帰りましょうか」

いつものように、些細な幸せを感じながら。その二つ名とは裏腹に、未だ幼い子供のような笑顔を浮かべるあなたと共に。晴れやかな空の下、穏やかな風に吹かれて。



     

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うーーーん……似非な芹沢で申し訳ない。





橘朋美







FileNo.006_03 2011/11/1