Princess of Darkness

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「……そうね、二時間後には迎えに来てちょうだい」

「はい。行ってらっしゃいませ、お嬢様」

こうしてここを訪れるのは初めてではないけれど、やっぱり気が進まない。恭しく頭を垂れた使用人に名を告げれば、ホールの先へと促される。奥の開け放たれた扉から漏れてくるのは、優雅な笑い声と絹のドレスが擦れ合う音。豪奢な洋館で繰り返される夜会は、残念ながら今日も盛況らしい。けれど――何人もの紳士や貴婦人の間を縫うようにして広間を進めば、目敏いあの方がすぐさま声を掛けて寄越した。

「まあ!よく来てくれたわね、さん」

「お招き有難うございます、叔母様」

ドレスの裾を僅かに持ち上げ軽くお辞儀をすれば、ほう――と零される幾つかの溜息。そしてその後は……品定めするように向けられる視線と、素性を探ろうとしているのが見え見えな自己紹介と言う名の挨拶に囲まれてしまった。

本当なら、こんな場所に長居したくはないのだけれど……今回ばかりは、そうも行かない事情がある。そんな素振りをチラとも見せずに微笑を浮かべ、当たり障りの無い返事を返す。叔母様に恥を掻かせるわけには行かないのだし、標的を確認してしまいさえすれば気分が優れないとでも言ってバルコニーに出られるのだから、それまでの辛抱だ。

「まあ。では、家に嫁がれた……」

「ええ。ですからこの子は、私の従姪ですの」

もう何年も前。私が幼い頃に他界した母の従妹にあたる花園夫人と呼ばれるこの方は有名な政治家であるご主人がおられるだけではなく、生家は宮筋の華族という、いわゆる上流階級に分類された人々の中でも頂点に位置する数少ない部類の人物。華族と言っても末席に名を連ねるだけの我が家とでは、周囲の対応も雲泥の差が出来る。

「あの方の血を引いておられるとは。なるほど、その美貌も道理ですな」

「恐れ入ります」

ヒソヒソと囁かれる言葉は、母様が亡くなってから同じ事ばかりを繰り返す。国内外の各地でホテルやリゾート施設を経営し一代で財を成した祖父は、早くに妻を亡くした後、最低限の使用人しか置かずに一人息子を育てたという。祖父の築いたもの全てを継いだ父は妻を娶った後もその生活を変えず、元々体の丈夫でなかったお嬢様育ちの母は私を生んでから臥せりがちになり、五年もしない内に――。

「失礼。僕も、そちらの方に紹介して頂けますか?」

「あら。ええ、勿論」

叔母様の背後から声を掛けた男性が、辺りに笑顔を振り撒くようにして近付いて来る。整った顔立ちと柔らかな物腰、周囲の女性から視線が集まるのも、理解出来るような気がする。きっと、これが今回の標的なのだろう。そして…………恭しく頭を下げて口を開いた目の前の男性が名乗った時、私の義務は果たされたのだ。

お互いに軽く自己紹介をし終えると時を見計らっていたのであろう女性達が集まり、親しげな挨拶から表向きは和やかな歓談が始まって……それに花を添えるように、軽やかな音楽が室内を満たして行く。この機に乗じて退室させて頂こうと決めた私はダンスの誘いを断って、最も多くの男性からダンスを申し込まれている叔母様の元へと急いだ。

「申し訳ありません、叔母様。私、少し……」

「失礼。顔色が優れないようですが……外へお連れしましょうか?」

す、と横に並んだ気配は知らないのものだったけれど……この場を離れるには丁度良い。お願い致しますと頭を下げて手を預ければ、周囲の言葉に卒の無い返事を返したその男性は、人気の無いバルコニーへと連れ出してくれた。

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まるで、室内の淀んだ空気に満たされていた肺が新鮮な空気を欲しがっているみたい。ゆっくりと庭を渡る夜気に当たり、深く息を吸い込む。そして惜しむように息を吐き出して、ふと気付いた。バルコニーに肘を着き、興味深げにこちらへ向けられた視線の主。――その存在ではなく、小さく吐き出された息のような微かな笑い声に。

「あの。私、何か可笑しな事をしましたかしら」

「ん?そんな事、気にせんでええよ。ただ俺が、あんたに興味を持ったっちゅうだけの事や。
なあ――さん?

まるでこちらを試すようにして最後に小さく呟かれたその名前。それは、真っ当な暮らしをしている者なら決して知り得ないもの。何故この男が知っているのか、それが私だと確信しているのだろうか?先ほどまでの礼儀正しさは、その辺りにコロリと音を立てて転がってしまっているというのに。それが取るに足らない瑣末な事に思えてしまうほどの動揺を受けた私は、素知らぬ振りを通す為に理性を総動員し、有らん限りの知恵を絞りながら助けを待っていた。

「あれ?もしかして、聞こえてへん?俺があんたに興味あるって……」

「興味だなんて。そのような事を仰られても……私、困ります」

一瞬驚いたような表情をしてから恥じらいと困惑を表に出せば、男は平然とこちらに近寄り――。無表情とも作り笑いとも取れる顔のまま私の手を取って、その甲に口付けた。それは、まるで外国の童話に描かれている挿絵のように美しい光景だったけれど。

「お嬢様!こちらに居られたんですね。そろそろお帰りに――」

「…………ええ、行きましょう」

助かった。その声が終わりの合図だったようにして、男は私から離れた。童話の中の王子みたいな瞳とは全く違う、獲物を見定める狩人のような視線と共に。そして、名残を惜しむ言葉を……どこか面白がっているような口振りで告げたのだった。

「残念やけど、今日はここまでやね。ほな……またな」

「…………ごきげんよう」

お互い名乗りもしなかったというのに、次の機会などある筈も無い。私を知っているのかもしれない、得体の知れない男。そんな危険人物に近付くつもりは毛頭無いのだし、こちらのサロンへ出向く事も……表向きでは、もう当分必要無いのだから。

■□■□■

叔母様に暇を告げてサロンを出ようとすれば、まだ夜は長いのだからと先ほど確認した男性に引き止められた。用心しなければならないのは依頼者だけでなく、標的とは特に必要以上の関わりを持ってはいけない。それは、この世界に入って直ぐマダムに教えられた事。――そうでなくとも相手をしたい気分ではなかったけれど――幾分か目を細めて、気分が優れませんのでと弱弱しい微笑みを向ければそれで良い。矜持を傷付けられたくない愚かな男達は、無理強いするような野暮な真似をしないまま引き下がるしかないのだ。

「真っ直ぐお帰りになりますか?」

「そうね……ええ、そうして。今日はもう、休みたいわ」

小さな音を立ててドアが閉められ、外から隔絶された心地良い空間が出来上がる。誰にも邪魔されない、安心して寛げる場所。

あの一言が気にかかりはしたけれど、それは追々調べれば良い。どうせ明日はマダムに会うのだし、今夜のゲストだったなら、素性を探るのはそれほど難しい事ではないだろう。そんな事を考えながら、後部座席で目を閉じた。



     

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裏を書くつもりは無いんですが、「black stratagem」みたいに選択物にしようかなー?と思って書き始めた短編です。国も時代も碌に考えず書いているので滅茶苦茶適当な感じですが、そこはそれ。在り得ない世界の話として楽しんで頂ければ、と。





橘朋美







FileNo.006_01 2011/10/26