――三年前。
さん……僕に、教えてくれませんか?
一人暮らしのアパートで、彼を待っていた。多忙な日々を送っていた彼に誕生日プレゼントは何が欲しいかって聞かれて、二人きりで過ごす時間が欲しいと答えたんだ。
その石が、どの指に輝くのか。
一緒に過ごす時間を欲しがった私に、彼は最高の贈り物をしてくれた。迷う事無く左手の薬指を選んだ私を見て、彼は幸せそうに笑ってくれたのに……。あれからもう――そろそろ三年。私は今も一人で暮らしている。小さな輝石が嵌め込まれた銀色の指輪は、今も左手の薬指に馴染まないまま。
「……やっぱり」
仕事帰りに携帯を確認してみても、何の連絡も無い。もうどれくらい、こんな時を過ごしただろう?あの頃研修医だった彼は、今ではもう立派な医師として働いている。それはもう、忙しくて休みを取る暇も無いくらいに。通常の勤務に加えて、夜勤もあれば学会もある。その腕と人当たりの良さを買われて部長にも目をかけられている彼は、出世街道まっしぐらだと専らの噂だ。
「もう諦めた方が良いのかな……」
らしくもなく弱気になってしまうのは、誕生日が近付いているからだと思う。二年前、誕生日の翌日。当直勤務明けの彼は、大きな花束を抱えてこの部屋を訪れてくれた。部屋に上がると花束の代わりに私を抱きしめて、愛していますと囁いて。一年前は、大きな手術のあった後で学会へ行っていたんだっけ。戻ったばかりだと言う彼は部屋に入るなりボストンバッグを下ろして、まるで懐かしむように口付けてくれた。誕生日を過ぎてしまった事とプレゼントを用意出来なかった事をとても申し訳なさそうに謝って、その後――。術後の経過が気になるからと言って、病院へ行ってしまったんだ。三年前から少しずつ変わってしまった誕生日が今年はどうなるのかと思うと、どうしても前向きな気分になんてなれなかった。
「職場恋愛って、こういう時に困っちゃうんだな……」
大して湧かない食欲の為に一人分の食事を用意してからお風呂に浸かれば、沈んだ声の独り言に雫が一粒。まるで寄り添うようにしてポタリと落ちた。
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「おはようございます」
ロッカールームでは、いつものようにナース達の噂話が飛び交ってる。受付窓口担当の事務員では判らないような個人的な話。そう、普段はそれだけの事でしかなかったのに。彼女達の口から上がった名前はよく知ったもので、つい耳をそばだててしまう。その場の雰囲気からすればあまり聞きたくない類の話だと判っていたのだけれど……。
「……でね、受けたらしいのよ。」
「ええっ、本当なの?」
「普通、部長の薦めで院長のお孫さんなんて断れないでしょう?」
指先が震えて、ボタンが上手く留められない。頭の中で疑問が飛び交って、これから何をしたら良いのか判らなくなりそう。早くこの場から逃げ出したい。言う事を聞かない身体をその一心で動かして、本来の目的である場所へ――。
「あーあ。唯一フリーだったイケメン医師にも、ついにお相手が出来ちゃったのか〜」
扉を閉めようとした私を追いかけて来たのは、まるで止めを刺すような一言だった。
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同じ職場に勤めていると言っても、診察室と病棟を行き来しているか検査室や手術室に篭っているかの彼とほぼ一日外来受け付けに座っている私とでは、滅多に顔を合わせる事も無い。行き帰りや休憩時間ですら重なった事が無いくらいだ。当然、あの噂を聞いてからもそれは変わらないまま――。
「はい。こちらの初診票に……」
何年も繰り返してきた仕事は、どれだけ心が騒いでいても勝手に身体がこなして行った。頭の中も、似たようなものだった。家に居る時は嫌というほど彼の事を考えてしまうのに、仕事へ行かなくちゃと思うと自然にそれは忘れられる。そうしなければならないという事を、この仕事についてから覚えてしまったんだ。
「お先に失礼します」
それでも。仕事を終えて一歩外へ出れば、次から次へと思考が巡る。ちゃんと本人に聞かなきゃ駄目だ。けど、彼の勤務形態を考えると電話するのも憚られるし、鍵を持っているからといって彼の部屋で待っているのも厚かましいような気がする。それにもし、噂が本当なら……。そう思うと怖くて、結局どちらの方法も選べないまま何日かが過ぎていた。
「――あ」
職員専用の通用口から出て駅へ向かう途中。病院裏手の駐車場を横切る私の目は、いつもの癖でその車を探していた。滑らかな流線型を描く銀色のボディ。その運転席から覗いたのは、束ねられた蜂蜜色の髪。これはチャンスかもしれない。そう思って駆け出しそうになった足を止めたのは、助手席側から現れた人形のような女性。見たくなかった。それが院長のお孫さんだって判っていたからこそ、一秒たりとも見ていたくなかった。
家に帰ってからの行動は、我ながら素早かったと思う。もう随分と使っていなかったメール機能を呼び出し、彼の名前を探す。話したい事があるので都合の良い日時を知らせて下さいという本文を打ち込んだら、迷わず送信ボタンを押した。これで良い。何もしないで自然消滅を待っているより、ちゃんと自分で終わりを見届ける方が私らしいと思う。キーホルダーから外した彼の部屋の鍵は、何だか私の気持ちみたいに一回り小さくなってしまったように見えた。
▼△▼△▼
「さん…!」
「……おはようございます、弁慶先生。何かこちらに御用ですか?」
目を合わせた一瞬、心が揺らいだ気がした。でも、病院では私達が付き合っている事は秘密にすると言ったのは彼だ。だから私は、今までと同じように仕事用の笑顔を崩さなかった。少し間を空けて朝の挨拶を口にしながら、彼はカウンターの中へ入ろうとした私に封筒を手渡す。
「来週転院予定の813号室の患者さんに頼まれていた診断書です」
「?――はい。確かにお預かりしました」
普通はナース経由で持ち込まれる筈の書類には、小さな囁きが付いて来た。『今夜待っていて下さい。遅い時間になると思いますが、必ず電話します』と。そしてその日、私は一生で一番長い一日を過ごす事になってしまった。

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(壁紙:Kigen/kazuさま)
初のパラレル選択夢です。
タイトルは直訳すると「黒の戦略」「黒い戦略」という感じになる筈ですが、敢えて「黒の策略」と訳してやって下さい。
橘朋美
FileNo.004_01 2010/10/16 |