僕が初めて意識して聞いたクラッシック音楽は、彼女の演奏だったのかもしれない。同じ年の、背の高い女の子。初めて会った時、僕は彼女を転ばせてしまった所為で――少し慌てていたんだと思う。そんな僕を心配してか、彼女はヴァイオリンを取り出して見せながら、特徴のある喋り方と奏でる旋律で僕を落ち着かせてくれた。
彼女のお母さんはうちのお得意様の一人で、よく母と話しているところを見かけていたけれど。それからは、そこに彼女が居る事も多くなった。ヴァイオリン教室の帰りだという彼女は会う度に演奏を聞かせてくれて、新しい曲を上手に弾けるようになったと言っては、嬉しそうに笑っていた。
そんな事が何度か繰り返された頃だったか。彼女がアメリカに行ってしまうと聞いて、ただ無性に寂しいと思った事を覚えてる。
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中学生になってからトランペットを始めて、僕は、本当に音楽の楽しさを知ったんだと思う。何年も前に彼女が聞かせてくれた曲を、自分でも演奏出来るようになった時の嬉しさ。仲間と共に奏でる事の楽しさ。それは、何度繰り返しても新しい喜びを与えてくれた。
高校生になってからも、僕はトランペットを続けてきた。吹奏楽部に入って、大勢の仲間達と意見を交わして。勿論、嬉しい事や楽しい事ばかりではなかったけれど……。それでも僕等は、僕等の目指すものの為に精一杯頑張ってきたんだ。それが道半ばで終わってしまったのは残念だったけれど、あの時の演奏は、本当に素晴らしいものだった。僕等のもてる力の全てを出し切って、仲間と一緒に音楽を楽しんだ。まさかその後、菩提樹寮にお世話になるとは思ってもみなかったけれど。
翌朝階段を下りていくと、そこに彼女達が居て――。つい、ちゃん?なんて子供の頃の呼び名で呼んでしまった事を、少しだけ後悔した。それでも、懐かしそうに答えてくれた彼女に救われたんだ。お互いが幼馴染だと知って驚いたのは、僕も千秋も。そして、彼女も同じだった。数年振りに会った彼女はずっと大人になっていたけれど、小さく笑う様子に当時の面影が見えた時、何故か、心が跳ねたような気がした。
けれど、僕は――その気持ちを深く考えないと決めたんだ。
僕等は後学の為に横浜に残ったんであって、決して遊ぶ為にじゃない。それなのに、浮付いた気持ちでいるなんて。こんな気持ちは、捨てなければいけない。諦めなくちゃいけないんだと。
それから数日後。彼女と千秋がそれぞれのソロ部門でセミファイナルを勝ち抜いてからは、特に。セミファイナルを勝ち抜いた彼女には、ファイナルが控えてる。残り僅かな時間を割いて、僕に付き合って遊んでいるような場合じゃない。けれど彼女は、それを違うと言った。今は、こうして音楽以外の楽しさを追及していても良いのだと。必要な練習は、いつもと変わらない。どれだけ弾こうと、本当に満足出来る演奏なんて無い。これが最高の出来だと感じた演奏にも、練習を重ねる度に更なる高みを望むようになる。だからこそ、音楽は面白いのだと。
そして数日後。僕は、あの時の彼女の言葉を認めざるを得なかった。彼女の得意な曲は、甘く艶やかなものや激しく情動的ものだった筈だ。それは、いつも僕の世界とはあまりにもかけ離れた世界を生み出す。なのに彼女がファイナルに選んだ曲は、得意なものを更に引き出すものじゃなかった。自分の作り出す世界を損なわないまま、全く違う印象をもったその曲で勝利を掴んだ彼女に、僕は――。
「ユキ君、どないしたん?こんな所で」
「えっ?ああ、少し……考え事を」
「ワルツ始まってるし、行こ」
「うわっ……いや、僕はワルツなんて――」
踊った事が無いと言っているのに簡単だと言って手を引く君に、伝えてしまっても――良いんだろうか。僕は彼女を批判して、傷付けてしまったのに。彼女と居られる時間は、もうほんの僅かしか残っていないのに。こんな時に……いや。こんな時だからこそ、なのかもしれない。本当なら、言わずにおいた方が良いのかもしれない。胸にしまったまま、諦めようとしていた気持ちだけど――。
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