modulation
金澤紘人




「返却は一週間後だ。忘れるなよ?」

やれやれ、また貴重な昼休みを潰されちまったか。若い奴等が勉強熱心なのは良い事だが、こっちの都合も考えて欲しいもんだ。とはいえ、そんな事を口にする訳にはいかないんだが。

それほど意識しているとは思わない。いや――思いたくない、というのが正しいんだろうな。事実、俺はあいつの事を気にしているんだから。気にしていなければ目で追う事なんて無いだろうし、返す言葉に頭を悩ませたりはしないだろう。その方が……ま、気だけは楽なんだろうがな。

「参ったね、まったく……」

ついぼやいちまうのは、しょうがないだろう。何せ命綱無しで綱渡りをしているようなもんだ。こんな気持ちを抱えたまま、あと半年――か。若い奴等は何かを学び、何かを得て成長していく。見守っている側には、それがどれだけ眩しいか。きっとお前は知らないんだろう。

そうでなければ、あんな事は……。はは、女々しいもんだな。あいつの周りには何人もの人間が……いや。何人もの男が居る。そいつ等が多少なりとも好意を示している事も、判っちゃいる。

「はあ。……俺もまだまだ青いのかね」


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初めてそれを感じたのは、いつだったか。コンクールが終わり、秘密を共有するようになって……なんだ。随分前の事だと思っていたが、まだ二ヶ月も経っていないんだな。時の流れっていうのは、こんなにも遅いものだったのか。その意味に気付いて、何とも情けないもんだと舌打ちする。俺は教師で、あいつは生徒だ。その状態が終わるまでは絶対に口にしないし、行動にも出さない。それを承知で、俺はあいつに言い聞かせたっていうのに。

すっごく美味しかったんだよ!と言う、奴の勢いが気になる。
さんに貰ったんですよ。と言う、奴の余裕が気になる。
最近凝っていると聞きましたが。と言う、奴の毅然さが気になる。
あいつも意外と器用なもんだよな。と言う、奴の視線が気になる。
良かったら一つ食べますか?と言う、奴の素直さが気になる。

本当に言い聞かせなきゃならなかったのは俺自身にで、お前に近付く奴等の一挙一動を気にしている事の意味を知る……あまりにも滑稽だ。俺が遅くに生まれていたら、とか。お前が早くに生まれていたら、なんて。そんな事を考えるのは無意味だと解ってる。あの時だからこそ出会い、今だからこそ通じた思い。それを……無かった事にしたくない。


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今日もまた、一日が過ぎていく。お前と碌に話す事も無く、顔を合わす事も殆ど無いまま。コンクールが始まるまでは極普通だった筈の日常が。今思えば何を暢気にと罵ってやりたくなるが……。、その時の俺は、これでまた確実に一日短くなったという小さな毎日のご褒美を手にして満足していたんだから、しょうがない。

「さて、と……帰るか」

戸締りを終えて職員室を出れば、辺りはもう薄暗くなっていた。梅雨が明けたとはいっても、この蒸し暑さか。やれやれ、日本の夏独特の暑さは何とかならんもんかね。いつもなら真っ直ぐマンションに向かう足で森の広場へ寄ったのは、今日一日、姿を見かけなかったハナさんが気になったからだ。それがこんな場面に出くわす事になろうとは……猫神様も思わないだろう。

「ん?…………!」

聞こえたのは微かな泣き声で、見えたのは重なる影。声の主はお前で、それを抱く影はあいつだった。俺も若ければ、感情のままに出ていったんだろうが……な。理性が残っていたのは重ねた年のお陰か、それとも教師という立場のお陰か。どちらにせよ、普段とは逆に感謝したくなったくらいだ。極力平静を保って声をかければ、慌てて離れる二つの影。

「あー……、お前さんは残れ。相談くらい乗ってやれるだろう」

送って行くという声を遮ったのは、殆ど条件反射みたいなものだった。暗くてよく判らないが、友好的な表情じゃない事は確かだろうな。ま、それは俺にも言える事なんだろうが。本能的な直感とでもいうか、ここでお前を帰したら拙い事になると思ったんだが……。

悪いが、こいつは予約済みなんだよ。

小声で告げた言葉に返された視線で、それは確信に変わっていた。


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何があったのか、なんて聞ける雰囲気じゃなかった。聞かなくても察しは付いたし、それについて責めるのは筋違いってもんだ。そんな風に一人で納得してしまうのが大人の悪い癖、ってヤツかもしれんな。それに満足してお前を帰していれば、俺達は終わっていたんだろう。

「……取り敢えず、少し明るい所まで行くか」

落ち着いたところを見計らって手を引こうとすれば、一瞬躊躇った後、おずおずと握り返してくる。その手が冷たく感じるのはお前が緊張している所為なのかもしれないし、さっきの興奮から冷めていない俺の手が熱い所為なのかもしれない。

惚れた女にちょっかいを出されて危うく立場を忘れそうになるなんて……。下手すりゃこれまでの我慢が全部無駄になっちまうトコだったんだぞ?大体、表沙汰に出来ない事で辛い思いをしてるのは俺だけじゃないってのに。まったく、どこの青二才なんだか。

「――――は?」

何とか自分も落ち着こうと思ってゴチャゴチャと考えていた時だった。普段からは想像も付かないか細い声で繰り返す、ごめんなさいという単語。こんな状況でそれが意味するのは一つしかない。恋人同士が今の関係を終わらせる時の、一番単純明快な言葉。正直、やっぱり……という思いはあった。同じ年頃の奴等と違って、気ままに接する事も出来ない。一緒に休日を過ごす事も出来ない。おまけに倍近い年の差だ。続くと思う方が間違っている、と。

「それがお前さんの出した結論なら、文句は言わんさ。俺の事は気にしなくて良いから……」

泣くのは止めてくれ。と言おうとしたその瞬間、顔を上げたお前は更に涙を零した。あいつの腕の中で泣いていた時とは違う、激しい感情を孕んで。その思いをぶつけられて漸く気付く事が出来た俺は、馬鹿としか言いようが無い。解っているつもりで解っていなかった、馬鹿な大人だったとしか。俺と同じように、お前も我慢しているんだと思っていた。だけど、違ったんだな。いつの間にか、忘れちまっていたんだ。感情ってのは、若ければ若いほど抑えが利かないって事を。

「こら、落ち着けって……。――すまん、俺が悪かった。だから落ち着け」

泣きじゃくりながら必死に気持ちを訴えるお前を宥めようと口にした言葉は一つも効き目が無くて、ぶつけられる思いに胸を締め付けられそうで。拙い――――ついにやっちまった。そう思った時には遅かった。しょうがだろう?他に落ち着かせる方法を思い付かなかったんだ。

「これで解ったか?俺がお前を……失いたくないんだって事を、さ」

夜道を一人で帰す訳にもいかんだろうと家まで送り届け、別れ際に渡された小さな包み。やっと渡せた、と微笑む姿。恋人が未成年だという事を、これほど悔やんだ夜は無い。

■□■□■

「さて、と……」

静かに零れ落ちる清らかな月の光。極上のシルクのように柔らかく滑らかなそれは、人の思いに似ている。だが……。引き裂かれて様変わりしてしまえば、それは凶器になってしまう。透き通った、薄いガラスの欠片のように。

傷を受けるのは、思いの主かそれを向けられる者だけだ。それなら……その思いを全部、俺だけに向ければ良い。痛いほどの思いが、お前自身を傷付けてしまう前に。その傷は、いつかお前に癒してもらえるんだから。

To : 
Sub : 美味かったよ。
クッキーの礼というのも妙な
もんだが、個人的なeメールア
ドレスだ。何かあれば、ここへ
連絡するように。

言っておくが、最重要機密だ
からな。

それと、間違っても気の利い
た返事を期待するんじゃない
ぞ?

h.kanazawa.|

あー、続きは何だったか……。やれやれ、パソコンを立ち上げにゃならんか。風呂上りのビールには合わないクッキーをつまみながら、浮き足立つような感情が面倒だという思いを消して、電源を入れる。短い筈の夏の夜が意外と長いものだったと知るのは、数時間後。だが、お前が居るからこそと思えば、それも良いもんだ。好きな時に会えない寂しさも、自由に話せないもどかしさも、半年後には埋めてやれる。

「それまでは……待っていてくれ」



     

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(壁紙:Kigen/kazuさま)

連作二編目、modulation金澤編ですが、えー……手が早いのが橘クオリティって事で。
すみません、調子に乗りました。
でも、出したくても出せない手がつい……ってのは、あると思うなぁ。
これでも一応かなり抑えて書いているつもりなので、どうか御許しを。





橘朋美







FileNo.107_02 2009/7/12 ※2010/10/12修正加筆