これ、結構作るのが大変なんだよね。材料や工程は簡単なんだけど一度に沢山は焼けないし、焼き上がったら直ぐに乾かさないと綺麗に仕上がらない。薄くて小さな熱い生地を崩さないように取り上げるのにも気を遣うし、砂糖が多くて湿気に弱いから、包装にも気を遣わないと直ぐにベタついちゃうし。
「こんなに苦労して作ってるのになぁ」
ついぼやいてしまうのは、これまで渡せなかった所為。これを食べさせたいのは、私の……多分、彼。の、筈。コンクールが終わってからというもの人に囲まれている事が多くて、最近では近付くのも難しいくらい。これは日持ちしないから、渡せなかった時には毎回他の誰かにあげて……。
「はぁ……。只でさえ不安が多いのに」
綺麗な薄い円形のクッキーを一枚摘まみ上げて、また溜息を一つ。溜息を吐くと幸せが逃げるなんて、誰が言ったんだろう。幸せな時が逃げているからこそ、溜息を吐いてしまうのに。一つずつ、壊れないように……慎重に。そっと袋に入れていくのは、あの人を好きだと思う気持ちが溜まっていくのと似ている。
「やっぱり…………難しいのかな」
コンクールが終わってからは話しかける事も少なくなってしまったし、話しかけられる事は、もっと少なくなってしまった。万が一の事を考えれば学院に居る間はメールすら送れないし、休日を一緒に過ごす事も、互いの家を行き来する事も出来ない。頭では解っていたけれど、実際にそうなってみると――やっぱり辛かった。
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朝。
登校中に会えたけど、周りには見知った顔が幾つもある。そんな時に出来る事なんて、挨拶くらいしか無い。おはようございます、金澤先生。そう言えば、必ず返事は返ってくる。おはようさん。朝から練習か?偉い偉い。そうやって、返ってくるけど……。それは、一生徒へ向けた挨拶の言葉でしかない。
授業前。
月曜は、いつも職員会議がある。誰かに見られないように――なんて、絶対に無理。
昼。
終業のチャイムが鳴り終ると同時に終わる授業。予め用意しておいた小さなバッグを掴んで音楽準備室へ急げば、扉の前で他のクラスの生徒がノックをしている。金澤先生!いらっしゃらないんですか?って……あの声と表情なら、きっと急用。やっぱり、今日も駄目なのかなぁ。
放課後。
出来れば、直ぐに探しに行きたい。けど、夏の大会――引退試合を控えた今、部活を疎かには出来ない。
夜。
大会を控えた運動部だけが許される、最終下校時刻19 時。薄っすらと翳りを帯びた空の下、疲れた身体でノロノロと森の広場を歩く。また今日も渡せなかった、これまでで一番出来の良いラングドシャ。鞄の中にあるそれを思うと、身体だけじゃなく心まで疲れて……。知らない内に、人目に付かない奥の方へと足が向いていた。
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辺りがすっかり暗くなって、もう殆ど校舎の灯りも消えている。こんな所に人が来るなんて、思ってもみなかった。ただ苦しくて、声を出したかっただけなのに。
何故ここに来たのが、あの人じゃなかったんだろう。どうして君は、そんな目で私を見詰めるんだろう。
ドン・ホセを虜にし、その一生を滅茶苦茶にするまで翻弄して、思うが儘に振舞った挙句、殺されてしまったカルメン。もし彼女が先にエスカミーリョを愛していたなら、悲劇は起きなかったんだろうか?
それを君が知っているのは、何故なんだろう。あの人は、どうして平気でいられるんだろう。
思うように振舞う事すら出来ずにいる私には、とても理解出来ない。理解しようと努力する事が出来たとしても、それを実行するなんて……出来ない。そう思っているのに。……どうして私は――君の胸で泣いているんだろう。自分がこんなに弱い人間だったなんて、今まで知らなかった。出来る事なら知らずにいたかった事を、また知ってしまったんだ。
聴かれていたという失態と、見抜かれていたという醜態。見透かされた気持ちと、告げられた言葉。何もかもが突然で、全てが動揺を誘う。夏なのに、長い夜だった。

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(壁紙:Kigen/kazuさま)
シリアスというか暗いというか、後味が悪いというか……。
ま、paraphraseでは基本的にこういった話を入れないので短編でちょこちょこ書こうかと。
modulationの時期は期末考査後〜夏休み前で、状況は金澤VS???。
橘朋美
FileNo.107_01 2009/5/31 ※2010/10/12修正加筆 |