まったく……。伴奏者が本番直前に行方知れずなんて堪ったものじゃない。けど、日野さんがパニックになっていないのには助かった。案外彼女は落ち着いた性格なのか、それとも肝っ玉の太い人なのかもしれない。
「先輩。私、こっちの方を探してきます」
「じゃあ、五分経っても見付からなかったら戻ろうか」
もう冬海さんの演奏が終わっている頃だろうから、日野さんの出番まであと三人。はっきり言って、時間的な余裕は無いに等しかった。もし見付けられなければ――――。最悪の事態を想定しておかないと駄目かもしれない。そんな事を考えながら、目と足を走らせようとした時。
「庄司さん……どういう事?」
「私は――ただ、あなたに出場して欲しくないだけです」
彼女は運が良いのか悪いのか、伴奏者だった筈の一年生を見付けていた。私は口を挟むべきじゃない。そう思って最初は黙って聞いていたんだけど、我慢出来なかった。その子の言っている事は矛盾ばかりで、こんな状況を、私は我慢出来なかったから。
「あなたの言ってる事、おかしいと思わない?」
「そんな事……あなたには関係無いじゃないですか」
音楽に対して真剣じゃない?音楽科でなければ、何のリスクも負っていないって?日野さんを騙して本番直前に逃げるのは卑怯じゃないとでも?この件はコンクールに関わっている大勢の人達に影響する。彼女のしている事は、あまりに幼稚で悪質な妨害行為でしかない。
「私としてはかなり腹立たしい状況なんだけど……」
誰かが扉を開けたんだろう。背後で微かに響くのは、凱旋行進曲。しかも、今正に曲が終えられようとしていた。――もう時間が無い。蓮君の一言が飛び込んできたのは、話を切り上げようとしたその時だった。
「同感だ。君の行為がどれだけの人に迷惑をかけているのか、判らないのか?」
■□■□■
伴奏者が逃げ出してしまった以上、もう他に打つ手は無い。日野さんと蓮君を先に行かせて、私は一旦控え室へ。上手く行くのかなんて判らないけど、このまま何もしないでは居られない。スピーカーから流れてくる黒鍵のエチュードを後に、舞台袖へ急いだ。
「しかし、どうしたもんだか……おい、誰か日野の伴奏出来そうなヤツは居ないのか?」
「拙いよ金やん、もう柚木の出番だ!」
庄司さんのドタキャンをどう説明したのか知らないけれど、事態が芳しくないという事だけは確かだった。まだ拍手の残る中、階段を下りてくる土浦君は何も知らないんだろう。入れ替わりに階段を上がった梓馬君は、一瞬だけ驚いたような視線を寄越した。
「日野、そろそろ準備……おい、何かあったのか?」
「はい。日野先輩の伴奏者が……」
意味の無い唸り声を出しながら頭を掻いていた金澤先生の所へ辿り着いたのはその時。日野さんは、その横で少し青い顔をしていた。彼女が学内コンクールに出場する羽目になった経緯と、ついさっき起きたハプニングを思えば無理も無い。
「おい、ここは関係者以外――って、。お前さん、何だって制服に……」
「日野さんの伴奏、私が務めます。居ないよりはマシでしょうから」
即興で一度だけ合わせた事なんてゼロに等しい事だし、失敗しないという保証は無い。だけど、それでも。黙りこくってしまった金澤先生から日野さんへ視線を移せば、その目には焦りが浮かび戸惑いで揺れていた。
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ざわつきが収まり、しんとした緊張感に支配されるこの瞬間。これを楽しむ事は、今の日野には出来ない芸当だろう。は――演奏していた時もそうだったな。コンクールは未経験だったらしいが、流石は音楽科の最上級生と言ったところか。大した貫禄だ。
「ああぁ……頑張って!日野ちゃん」
ありゃ、本人の性格なんだろうな。なんて暢気事を考えてりゃ、後ろの火原が今にも叫び出しそうな勢いだ。一応宥めておくかと振り返った俺の目には、出場者達の顔が見えた。間近で演奏を聴きたがっていた志水はともかく、他の奴等まで全員だ。祈るような――いや。実際祈ってるんだろう冬海に、睨み付けるような視線で舞台を見る土浦。どこか楽しげな柚木の後ろには、難しい顔をしたままの月森まで。
「まったく……大したモンだ」
日野の伴奏者の件が無ければ、多分こんな光景は拝めなかっただろう。こいつ等全員が、揃って同じものを見詰めるなんてな。コンクールの担当なんて厄介事ばかりで冗談じゃないと思っていたが……。こんな状況を見られたんだ、少しは感謝しても良いかもしれない。拙い印象を拭い切れない演奏を聴きながら、今の俺には見えない妖精達に。
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「やあ。今帰り?そうだ。優勝おめでとう、本当に良い演奏だったね」
取材というには無理のあった天羽さんとの時間を終えて……。疲れたという思いを捨て切れないまま交差点を渡ろうとすれば、声をかけてきたのは王崎さんだった。
「ありがとうございます。って……あれ?コンクールの手伝いって、こんな遅くまでだったんですか?」
戸締り前の確認をしていた金澤先生は、講堂に残っているのは私達が最後だと言っていた。実際、さっき日野さんや天羽さんと別れるまでは誰にも会わなかったくらいだし。もしかして、私に何か用なんですか?そう聞く前に、答えが返ってきた。
「少し話したい事があるんだけど、良いかな?」
正直に言えば、あんな事があった後だし早く家に帰って休みたかった。けれど、その為に手伝いが終わった後も待っていたと言う王崎さんの誘いを断れる筈もない。でも――歩きながらで構わないからと言って話し始めた王崎さんに、まさかバレていたなんて。コンタクトを眼鏡に替えて、髪型も全く違うものに変えていたのに。そこまで考えて、私は漸く気付いた。
「初めは見間違いかと思ったんだけど、何だか見覚えがあったんだ」
そう、王崎さんだから気付いたんだ。左右に分けた髪を結っただけの少し子供っぽい髪型で、風の強い日は眼鏡をかけて。中学生の頃まで。ヤマトの散歩に行く時は、いつも決まったそのスタイルだったから。
「ええと。もしかして、不正行為で厳重注意……とかですか?」
その時の王崎さんは、『目を丸くする』という表現がピッタリだったと思う。え?という一音の後に数瞬の沈黙があって……。否定の言葉が聞こえるまでの数秒が、途轍もなく長く感じた。
「そんな筈ないじゃない。寧ろ君は、良い事をしたと思うよ」
日野さんの結果は残念だったけれど……。本当に残念そうに、王崎さんは続ける。あんな事があった後じゃ、集中出来ないのは無理も無いだろうから。って……。私達の遣り取りを見ていたんだと謝られて、思わずこちらが謝ってしまう。誰かに相談すれば、もっと良い案があったのかもしれない。今更だけど、そんな風にも思えていたから。
「良い事――だったんでしょうか」
私はただ、あんな風に妨害するような人が同じ楽器を専攻しているのが悔しかった。その為に、真面目に取り組んできた関係者や聴衆が何らかの迷惑を被るのが嫌だった。でも、今となっては――。碌に合わせた事も無い日野さんにとって、やり辛いだけの伴奏者だったんじゃないかと思っていた。
「君は、悪い事をしたと思ってる?」
後悔したところで意味は無いと解っていても、後悔しそうになってしまう。私のした事は、ただの自己満足だったんじゃないかって。問いかけた王崎さんの目は、ただ優しいだけじゃなくて……つい立ち止まって、口にしていた。
「……少し。でも……あの時は、ああするしか無かったと思ってます」
それなら悩まなくても良いんじゃないかな。そう言ってくれた時。眼鏡の奥には、いつもの優しいだけの目が細められていた。
「それに、おれが君と同じ立場だったら、きっと同じ事をしていたと思うよ」
憂鬱な午後が終わって、一日の終わる夜が来る。疲れを癒し、明日に備える為の時間が。
「ありがとう、王崎さん」
まだ第1セレクションが終わったばかりだっていうのに、落ち込んでなんていられない。少なくとも、こうして親身になってくれる人だって居るんだから。これからも音楽を続けていくのなら、今日みたいに嫌な事だってきっとある。
「おれは何もしていないよ」
ただ君の話を聞いただけだと微笑む王崎さんは少し照れ臭そうで、街灯に照らされている所為か、少し頬が赤かった。家の前まで送ってくれた事にもお礼を言って、その背中を見送った後。呟いたのは、紛れも無い私の本心だ。
「やっぱり私、音楽が好きだな」

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漸く第1セレクション終了です。が…!数日後にはコルダ3が発売。
恐らく、まだ暫くは更新停滞期が続くかと。
それにしても……パソの変換がおかしいとホント厄介ですねぇ。
早く買い換えたいトコです。
橘朋美
FileNo.009 2010/2/22 ※2010/10/15修正加筆 |