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「いらっしゃい。久し振りね、さん」

その家に行ったのは、初めての事だった。学生の頃お母さんが何度も伴奏をしてもらったというその人は物腰の穏やかな綺麗な人で、春の陽だまりみたいに温かな曲を奏でてくれた。次々に鍵盤を叩いていく指を見ている内に思わず私も弾いてみたいと口にしたのが、ピアノを習い始めるきっかけを作った。その頃の私は歌を習いたかったのだけれど、私がピアノに興味を示した時の母の顔がとても嬉しそうで……それが、私には凄く嬉しかったんだ。

「……こんにちは」

その子に会ったのは、何度目かのレッスンの時だった。音楽を志すのだったら、ピアノを弾ける方が良いのよ。そう言って紹介してくれたのは、先生の息子さん。正確な音を一つ一つ奏でていく指はまるで機械みたいで、硬くて真剣な表情は、ちっとも楽しそうに見えなかった。先生とは正反対の演奏。なのにその曲は凄く綺麗で、私よりもよほど巧かった。

「練習が足りないからじゃないのか?」

それから何年か後。またその子と話す機会が訪れた時、私は何となく聞いていた。どうしたら、もっと上手に弾けるようになるのかな。その質問に間髪入れず返された言葉は、少なからず私の演奏に影響を与えたと思う。絶対に君より巧く弾けるようになってみせる!それは、負けず嫌いで自尊心の強い子供の言葉でしかなかったけれど……。それから私が殊更練習に没頭するようになったのは、あの子の一言があったからこそなんだと思う。

「そうね、そろそろ頃合いかしら。私の教えられる事は、もう全て教えてしまったもの」


先生にそう言われたのは、私が中学三年の時だった。

■□■□■


それ、なんていう歌?日本語じゃないよね。

練習の合間に庭で歌っていると、いつの間にか近くに来ていた男の子がそう言った。

ふうん、知らないんだ。じゃあ、他の歌は?知ってる?

ただ歌っているだけの私は、曲名すら知らずにいたんだっけ。歌う事が楽しくて仕方が無かったんだ。

ねえ、もっと歌ってよ。俺、あんたの歌好きなんだ。

乞われるがまま、覚えている曲を幾つも歌っていたあの頃。弾く事が楽しくて、歌う事も楽しくて。何も知らずにいたけれど、凄く幸せだった。

帰ってきたら、また歌ってよ。

そう言って、君は機上の人になった。それから直ぐ。知らずに居られれば良かった事を知った私は、人前で歌う事をやめた。

■□■□■

あの約束は守れないかもしれないし、あの頃みたいに歌う事も出来ない。だけどピアノの腕は上達したし、別に不幸だと思うほどの事でもない。

「初めまして。どうぞ宜しく」

その男の子に初めて会ったのは、そんな風に思うようになってからの事だった。父さんの会社と直接取引きがある訳ではないけれど、招待された以上は断らない方が良い。そんな感じのパーティー会場が、子供の私には退屈で仕方なかった。

家の娘さんはピアノが上手だと聞いていたけれど……」

酒臭い息を撒き散らして、あからさまなお世辞を言う大人。社交辞令だと気付かない訳も無いだろうに、ひたすら謙遜する大人。そうだと判っていても止める事の出来ない大人達から逃げて……。人気の無い離れでなら、歌っても平気かと思ったのに。

「驚いたな。君は歌も上手いんだね」

僕も少し前まではピアノを習っていたんだ。良ければ今の続きを聞かせてくれないかな?そう言って綺麗に笑う男の子は、どこか彫刻みたいだった。誰もが溜息を吐きたくなるような……でも、冷たい美しさ。

「ああ、ごめんね。もう行かなくちゃ。君もそろそろ中に入った方が良いと思うよ」

母親らしき人の所へ歩いていく男の子が自分と同じような経験をしたばかりだったと知ったのは、それから何ヶ月も過ぎてからだった。そして、それが彼の生き方に影響を与えたのだという事も同時に。

■□■□■

大学の同期だったという父の知り合いに招かれたホームパーティーは、会社絡みの無味乾燥なパーティーとは大違いで楽しかった。手作りの料理、楽しそうな会話。同じ年頃の男の子は、習い立ての曲を披露してくれた。私はピアノを習っているんだと言ったら、いつか一緒にソナタを弾こうって言われたっけ。小学生の頃は一緒に遊びに行ったりもしたけど、お互いそれなりに忙しくなってきた頃……。

「僕はもう、音楽を諦めるよ」

あんなに楽しそうに演奏していた君が何故そんな事を言い出したのか、私には解らなかった。両親に反対されている訳でもなく、怪我や病気で演奏困難に陥ったわけでもないのに。ただ君は、もう演奏する事が辛いんだと言った。練習する事が辛いんじゃなく、練習しても儘ならないから演奏する事が辛いんだって。音楽が嫌いになったんじゃないのなら、趣味として弾けば?と。その時、私は私のした事を君に勧めた。

「……そうだね、そうしてみるよ」

普段の君からは想像も出来ない、無理に作られた笑顔。私には、それをどうする事も出来なかった。それからは会う機会も殆どなくなって、時折り招かれるホームパーティーだけが、言葉を交わす場になっていた。それでも……。年に数回、旅先から届くメールや葉書きを読むと、音楽から離れる事の出来ない君が窺えるのが嬉しかった。

好きだからこそ辛くて、好きだからこそ離れられなくて。それでも、心の平穏を保つ為には諦めなければならなかったんだ。慰めるのは得意じゃないし、応援するのも得意じゃない。けど、全てを諦めずにいる事も出来るって……知っていて欲しかった。

■□■□■

何も知らなくて、全てを知りたくて。願いさえすれば、それが叶うと信じていた。傲慢で、好奇心旺盛で、純真だった子供の頃。自分がやりたいと思う事に出会って、自分がなりたいと思うものになれるんだと思っていた。だけど暫くして、それが儘ならない事にも気付いた。全てを諦めるのは辛くて、秘かなままでも続けたくて。そんな風に過ごす事にも、いつしか完全に慣れていった。

大人だと言えるほど経験は無く、子供だと言われるほど無思慮でもない。そんな年頃の私が淡々とした日々を過ごしていた、ある晴れた日の放課後。散り切った桜の花弁を蹴散らすようにして、運命はその扉を叩いた。



     

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ついに書き始めてしまいました、金色のコルダ夢物語「paraphrase」。
前々から書きたいとは思っていたんですが、何せ遙かの連載が一つも完結していないという有様。
尚且つトリップまで書き始めた上にパラレルも書きたいという野望もあったり。
しかも、公式キャラが少ーしずつ増えているという状況。
でもあと何年書き続けられるだけの情熱が残っているだろうかと考えたら、これはもう書ける内に書いておいた方が良いという結論に達してしまったのですよ。
ま、本編は淡々と進めていきます。コルダ→コルダ2&2f→コルダ2アンコールという遠い道程ですから。





橘朋美







FileNo.001 2009/5/13 ※2010/10/14修正加筆