残月



初めて顔を合わせたのは、私がこの世界に来てから九日目の朝。父上の部屋に呼ばれた時だった。目に入ったのは、緩くうねる髪とスラリとした長身。静かに振り向いたその顔は、どこか緊張しているようにも見えた。きっと見た目通り、たおやかで繊細な人なのだろう。一礼してその横に座れば、機嫌の良さそうな父上に紹介された。その人の名は、平惟盛。私の――兄となった人。


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馬術や戦術を習い始めてからは顔を合わせる機会が減ってしまったけれど、折を見て私に歌や舞を教えてくれたのは、兄上だった。歌や舞など、私には必要無い。最初はそう思っていた。それでも……。いつか必要になるかもしれないから、覚えておいて損は無いと思うよ。景時にそう言われた事も手伝って、私はそれを拒もうとはしなかった。

「私があなたに教えて差し上げられる事など、他にありませんから」

私が礼を言うと、決まって兄上はそう言った。少し困ったような、淋しげな笑みを浮かべて。ほんの少し前。平家が栄華を極めていた頃なら、この人は天賦の才だけで揚々と生きていけただろうに。盛りを過ぎ、終焉への道を直走るのが今の平家。清盛の嫡孫ともなれば、武に対する期待は大きくて当然の事だ。兄上が武に劣る事、私が他の才に欠ける事。それは否定する事の出来ない事実で、一人の人間がどちらにも長けているのが望ましいという事は、誰に言われずとも解っている。

「私は戦う事でしか役に立ちませんが、兄上は違います」

解っていても、それは不可能な事。だから、私は私の出来る事で役に立てば良い。同じように、兄上は兄上の出来る事で。それは、間違い無く私の本心だった。気弱な微笑を浮かべて小さく答えるこの人が正妻を迎えたのは、それから間も無くの事。


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「権大納言、藤原成親殿の二の姫か……祝いに行くべき?」

「ちょっと待って――」

兄上が正室を迎えたという知らせを持ってきたのは、景時だった。そして、それを読んでくれたのも……。元々、畏まった言葉遣いは得意じゃない。それに加えてこの時代の文字ときたら。慣れれば簡単だと言って景時は教えてくれているけど、外国語と同じくらい――いや、それ以上に読み辛い。だからといっていつまでも読めないままでは困る事もあるだろうし、身を入れて覚えた方が良いのかもしれないと思っていた矢先の出来事。

「ああ、行かなくても平気だよ。明後日、重盛様と一緒にお会いする事になるだろうし」

「父上と?そんな話、初耳だけど」

そりゃそうだよ、ここに書かれているんだからね。そう言ってウィンクする景時を飛び上がらせたのは、父上だった。部屋に入ってくるなり、ああでも無いこうでも無いと大騒ぎ。気にかけてくれるのは有り難いんだけど。どうも父上は、私が男として生活している事を忘れているようだ。もしそうでないとしても、兄上に恥を掻かせない服装で充分だというのに。私の衣を誂えるくらいなら、兄上達へ贈り物を。そう言えば、素直にそうかと引き下がる。この人は、不思議な人だ。

「羅刹――否、よ。いつかはこの重盛の娘として、嫁ぐが良い」

「……は…?」

取り敢えず明後日は兄上と奥方に会うと決まり、父上が部屋を出ようとした時。不意の言葉に絶句したのも、今となっては良い思い出だ。


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自分の置かれている状況には、それなりに満足していた。少なくとも、私は。どこだか判らない場所に落ちて、時代錯誤な邸で斬り殺されかけて。逃げる事も出来ず、助けを呼ぶ事も出来ずに監禁されていた事を思えば。たとえ多くの人間に歓迎されていないのだと判っていても。養子として迎えられ、知識を与えられ、人並み以上の生活を送っている。今の状況とは雲泥の差だ。それに満足出来ない筈が無い。なのにそれは、この時代の人達……いや、権力に縛られた人間達には考えられない事らしい。

もしかして、また…」

「――戦の続く時世なんだから、珍しくも無い。でしょう?」

大仰な刺客に狙われた事もあった。そうじゃない刺客は数え切れないほどに。何かあれば、私という駒は簡単に殺されるだろう。兄上達とは違い、父上の後ろ盾が無ければここに身を置く事も許されないのだから。それでも私は、その危うい立場を守る為に必死だった。みんなを探したくて、受けた恩を返したくて。せめて、生き残りたくて。そうして幾人の敵を返り討ちにした頃だったろう。言仁殿が産まれた数ヵ月後――。兄上の一子、六代殿が産まれた。

「でも、これは……」

「判ってる。それでも――!!」

私は事を荒立てたくなかった。あの兄上が、自分の意思で私を狙っているなど考えられない。頼朝は、清盛のように敵の血筋を庇護するなどしなかった。ここでも恐らく、六代殿は歴史上平家最後の直系となる人なのだろう。そうさせたくない。一門の者達を滅ぼさせたくない一心で戦っている人が居る。それが私を助けた父上である以上、私がそう思うのは当然だったのに。それでもそれは異端な考えで、それを排除しようとする奴等は増えるばかりだった。そして……そうこうしている内に、父上が倒れた。


◆◇◆◇◆

父上には、恩を返す事も出来ないままだった。ならば、せめて遺志を継ごうと決意していた。

「――父上、何故…」

既に事切れた亡骸の前で両手を付き、項垂れる兄上。悲愴な面持ちで、それを見詰める重衡。普段の雰囲気を微塵も感じさせない知盛と、景時が言った。

「兄上は、何と……?」

「私には、この方にお仕えせよと」

それがどれほど異例な遺言であったのか――私にも判っていた。景時のような者ならば、父上亡き後は兄上に仕えるのが道理なのだから。なのに、それを聞いて動揺したのは兄上だけ。知盛と重衡には伝えてあると父上は言っていたけれど……。恐らく兄上は、何も知らされていなかったのだろう。

「そう、ですか。羅刹殿に……」

「惟盛殿、参りましょう。父上にお知らせしなければ」

父上……いや。今の平家を代表する武将、平重盛。

その死は、重用されていた従者の処遇と同時にすぐさま伝えられた。兄上との関係が崩れ始めたのは、恐らくその時だったのだろう。

「父上……あなたの遺志、必ず遂げると誓います」

そして、その約一年後――。富士川の戦いと石橋山の戦い。兄上の率いた軍の敗走と景時の離反により、それは更に加速していった。



     

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(壁紙:WhiteWind/星田さま)

「残月」は、3&十六夜記愛蔵版の将臣END後に出てくる後日談から思い付いた惟盛短編です。
ま、単なる辻褄合わせとも言えなくもないんですが。
当然この後もそれなりの長さの続きがあり、最終的には将臣落ちに
なるかと


春にはコンピュータウィルスに脅かされ、秋にはインフルエンザウィルスに侵され、挙句スランプに陥って堂々巡りでこの始末。暫くは書ける物だけを書き進めるしかないなぁ。





橘朋美







FileNo.114_01 2009/11/17 ※2010/10/10修正加筆