父上が亡くなってから約半年。六波羅からの使者は悲劇の幼帝が誕生する事を伝えると同時に、敦盛の体調が芳しくないという知らせを持って来た。初めて会った頃から先天的な病気を患っているのではないかと思ってはいたけれど、戦場で討たれる筈の人間が病死するなんて欠片も思っていなかった。私に会うより前に二、三年ほど熊野で療養していたと、よく話を聞かせてくれていた。その頃は体調も良く、とても充実した日々を送っていたのだと。

。あなたは言仁殿の譲位を祝いに来たのではなかったのか?」

「それは兄上が行ってる。私は警護に付いて来ただけだから」

色の抜けてしまったような肌は気休めを言う事すら憚られてしまうほど白く、弱弱しく微笑む本人も…先が長くない事を悟っているようだった。稽古に来た時でも、度を超せば呼吸困難を起こしていた事があった。それが心臓か呼吸器系の疾患なのだろうと想像はついても、それに見合った治療を受けられる時代じゃない。環境の良い静かな場所で過ごす事だけが生き永らえる術なのだろうに、一門の誉れと浮かれている人間達にとっては庭の砂利粒ほどにも気に止める必要の無い事らしい。

「惟盛殿もおいでなのか。ならば尚更、あなたも行った方が良いのでは…」

「その必要はないよ。挨拶は済ませたし、私は敦盛を見舞うついでに警護を受けたんだから」

本当は、六波羅に来るつもりなんて更々無かった。敦盛の容態を伝える文が無ければ、警護も断っていたと思う。文は経正からの物で、周囲が慌しく落ち着けない毎日を送っているうえ、自分も敦盛を訪ねる時間が取れずに寂しい思いをさせてしまっている。もしも時間があるのなら、敦盛を訪ねてやって欲しい――そんな内容だった。年の離れた病弱な弟を心配して、口にする事の無い望みを叶えてやりたいとも。

◆◇◆◇◆

元より解っていた事だ。一門の中でも特に秀でた能力もなく、常日頃の生活さえ儘ならない頃もあった。熊野での療養は少しでも生き永らえて欲しいという父上と兄上による計らいで、何年か過ごせば具合も良くなるだろうと言われていたというのに。実際に具合が良かったのは、熊野で過ごしていた間だけだった。熊野での日々は不思議と穏やかなもので、年の近い友を得て海や山で過ごす事も多かった。伯父上と共に京へ戻るようにと言われた時は、熊野を去る事がとても辛くて……ヒノエに諭され、再会を約して別れた。それを果たす事も無いまま……。

「再び会う事も出来ないのだろうか」

「敦盛、起きてる?」

久し振りに聞く声は従姪にあたる人のもので、遠慮無く近寄るその姿は公達に相応しく凛としている。が女性だと知っているのは一握りの者だけで、それを知った時には私も驚いたものだ。学の無い養い児、間者だと罵られようとも。威風堂々とした立ち振る舞いと類稀なその武功は、決して貶められない。年は兄上と私の半ばだというのに……知盛殿や重衡殿に劣らぬ武人として、少数といえど兵を率いている女性。普通の女性ならば病人などには近寄りもしないだろうに、態々私を見舞う為に足を運んでくれる……姉のような人。

「先の事を思えば、私などに会うよりも…」

「敦盛、そういう言い方はしない方が良い。それに、私には必要ない事だよ」

自分で自分を否定する事は良くないと、何度も言い聞かされていた。鍛錬の度に色々な事を話し、不思議な心地良さの中で何度も。その度に己の不甲斐なさを思い知り、その強さを羨んで。私も、のように強くありたいと……願い続けていた。眩しいほどの生命力に満ち溢れた友と肩を並べ、己を恥じる事無く生きる姉に学び、包み込むような優しさの兄上に守られて。最後の時が恐いなどと言える筈もない。せめてもの慰みに彼の地を訪れたいなど……口が裂けても。

「体調が落ち着いているのなら、少し出掛けようか」

「えっ?……いや、私は…」

「無理はしなくて良いよ。馬で駆けるから辛いだろうけど、どうする?」

「だが、それではに迷惑が………すまない。ならば明日、頼んでも良いだろうか?」

静かに微笑を浮かべるは――それで良い、とでも言っているようだった。気晴らしに出掛けてみるのも良いかもしれない。いつ来るとも知れぬ最期までは、もう幾許も残されていないのだろうから。せめて一時でも、良い思い出を作りたい。それが最後の我が儘になるのだとしても、大勢の人の中で誰に看取られもせず独り逝くよりは……幸せな事だろう。手間を掛けさせてしまって申し訳ない気持ちと、私を気遣ってくれるの優しさを嬉しいと思う気持ちが綯い交ぜになって、それでも……嬉しい気持ちが勝っていた。

◆◇◆◇◆

まだ幾分か幼さの残る顔で酷く穏やかに微笑むのが、見ていられなかった。まるで全てを諦めて、自分が死ぬ事を受け入れているように思えて。生真面目で、周りを気遣い過ぎて、自分が我慢する事を最善とする。――譲とよく似ている。そう思うと、居た堪れなかった。もう三年近くも会っていない弟。見た目は全くと言って良い程似ていないけれど、考え方がどこか似ている。命取りになるかもしれないと判っていても、代償行為や自己満足にすぎないと解っていても、そうしたかった。

「しかし、それでは敦盛の身体が…」

「あなたの文にもあったでしょう?それを実行するまでです」

「確かにそうですが……。私は敦盛に、少しでも永らえて欲しいのです」

「それでも。どう足掻いても避けられない状況になる前に、連れて行きます」

「羅刹殿?!何を…」

「気付いていない訳ではないでしょう?経正。恐らく、敦盛自身も――」

酷い言い草だと解っていた。現実は生易しいものではないと解っていても、目を背けたくなるような事が溢れ返っている。それを受け入れたくないのは人として当然の事。それを眼の前に突き付けてまで、本人を騙すようにしてまで。どれ程の価値があるのか判らないけれど、死ぬまで只懐かしんでいる方が幸せだとは思えない。……思いたく、なかった。それに、このままでは欲望の渦巻く邸内の気に中てられて衰弱するばかりだ。そんな中で独りになるのは、悲しすぎる。

「羅刹殿お一人で連れて行かれて……もし、何かあれば…」

「何があっても必ず連れ帰ります」

「もし……道中で敦盛が…」

「それでも。背に括り付けてでも連れ帰ります」

いつ死んでしまってもおかしくない。――明日の朝、目覚めなかったとしても。それは知っている。それでも。ほんの数年暮らしただけの場所だとしても、心の支えになる事がある。私自身が、そうであるように。敦盛にとって、熊野は懐かしくて忘れられない優しくて幸せな思い出の場所なんだと思う。生まれる前の数ヶ月と、生まれてから数日。ほんの僅かな記憶にしかない、懐かしい場所。二度と帰れない、満ち足りた思い出の眠る土地。帰る事が叶うのなら。叶えられるものなら……叶えたい。

◆◇◆◇◆

虫の垂れ衣、市女笠。懸帯、懸守り、袿に単――。女物の旅装束を揃え、直垂に小袴のが訪れたのは一刻ほど前の事。人目に触れぬようにと半ば強引に着付けられ、邸の者にも知れぬ内に門を抜け、まるで何者かに追い立てられているかのように馬を駆る。

「どこへ行こうというのだ?、あまり急がずとも良いのでは…」

「遠出だからね。もっと駆けるから、しっかり掴まってて」

「遠出?だが、あまり無理をさせては……馬が可哀そうだ」

「迅雷なら大丈夫。ほら、喋っていると舌を噛むよ?」

元は乗る事さえ出来なかったと聞いていた。なのに驚くほど巧みに馬を駆り、畦を、木々を、軽やかに抜けて行く。笠と衣を飛ばされぬよう手繰り寄せ、背にしがみ付いている間に時が過ぎていた。邸からどれ程離れたのか判らない場所で、突然馬を止めたのは野盗だった。黄昏時の山中で、両の手指ほどの男達。また足手纏いになってしまうのかと思ったのは、ほんの数瞬の事。馬を降りたと同時に一人、また一人と斬り伏せてゆく姿は――羅刹というその二つ名に相応しいものだった。

「敦盛、怪我はないね?」

「あ、ああ。すまない、私は大丈夫だ」

「もう着くよ」

、一体どこま、で…?」

どこも苦しくはないというのに、靄が掛かるようにして薄れゆく意識。懐かしさを感じたのは、何故だったのか。何も見えない……何も聞こえない……静寂の中。まるで、私の周りだけが無音の闇に閉ざされてしまったようだった。次に目覚める事はあるのだろうか?夜毎湧き上がっていた気持ちは、打ち消す事が出来ぬままで。私はもう、目覚める事は適わないのだと思っていた。

◆◇◆◇◆

熊野に着いた時、敦盛の意識は無かった。薄く微笑んでいるように見えたのは、馬から降ろそうと抱いた時。やはり負担が大きかったんだろうか?それでも……遠くからでも良い。せめて、見せたかった。熊野の事を嬉しそうに話してくれた敦盛に、その景色を見せたかった。最短距離を突っ切って目指したのは間違いではなかった筈。そうでなければ間に合わなかったのだから。だけど――出来る事なら、ヒノエという友人にも会わせたかった。その為に、ここまで来たというのに。もう間に合わない。微かな息を漏らす敦盛を支えながら、探す時間すら残されていないのだと諦めていたその時――。

「あんた、そこで何やってんだい?」

「悪いが構わないでくれ」

「ふぅん?連れの方は構わずにいられないような状態に見えるんだけど?」

「君には関係の無い事だ」

せめて静かに逝かせてやりたくて、追い払おうと振り向いた。視界に飛び込んできたのは、赤い少年。在り得ない――そう思っていても、藁にも縋る思いだった。癖のある赤い髪、生命力に溢れたその目。火に照らされたその少年の風貌は、敦盛から聞いていたヒノエそのもの。熊野水軍を率いる藤原湛快の愛息子、湛増。幼いながらも頭角を現し始めている熊野の次期棟梁。運が悪ければ、どうなるかは知れた事―――ならば、どうするかも決まっていた。

「まあ、好き好んで厄介事に首を突っ込む気はないからね」

「君は、藤原湛増か?」

「あんた……何者だい?」

名前を出した途端に低くなった声、瞬時に身構えた身体。間違いない。この少年がヒノエ――敦盛の友達だ。そう確信した私は垂れ衣と市女笠を剥ぎ取り、敦盛を抱き上げて見せた。それだけで良かった。



     

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(壁紙:NEO HIMEISM/雪姫さま)

相生の年表を作ったら重盛の死と重なってしまったので、思わず番外編を。
本編が長くなり過ぎて、番外編で補充せねば間に合わないのです。
しかも、一回じゃ終らないくらい長い……気長に付き合って下さい。





橘朋美








FileNo.103_01 2006/11/25 ※2010/10/8修正加筆