陽がその色を変え、遠く山の端に姿を隠そうとする頃。降り積もる静寂だけに包まれる。眠り続けるの傍らに座し、もうどれほどの時が過ぎたのか。時折り枝を滑り落ちる雪の音が、響き渡るかのように耳につく。死者の如く動かぬ身体を……ただ、眺める。静かに横たわる姿は、常日頃の様相を思い浮かべる事が出来ぬほど…………莫迦莫迦しい終幕を、思い浮かばせた。
「兄上、どちらへ?」
「……ここに居たところで、何も変わるまい」
徐に立ち上がり、静かに言い放つ姿は常と変わらぬもので、その相貌のみが酷く儚く――雪のように思えた。このような表情をする兄上を見たのは、恐らく初めての事。何が理由なのかは一目瞭然。私は言葉を返す事も出来ずに、ただ静かにそれに倣うだけ……。去り際にの姿を目に焼き付ける。どうか……無事に目覚めますようにと祈りながら。
◆◇◆◇◆
知盛殿が立つと直ぐに重衡殿までが立たれて、が目覚めたら使いを寄越すように命じられた。一人残されたこの場所で思い浮かぶのは、あの時の暗い双眸。その途端、途轍もない不安に苛まされる。どうしてこんな事になったのか誰にも解らなくて、どうして良いのか判る人も居ない。オレに出来る事なんて何も無くて……。どうしてあんな目をしていたのか、どうして話そうとしてくれないのか、どうしてオレは……君の力になれないんだろう。もしかしたら――夜の闇に紛れて、このまま消えてしまうんじゃないのか。そんな事ばかり、考えていた。
◆◇◆◇◆
羅刹殿の元を訪れるのは好きだった。色々な事を尋ね、時に尋ねられ……時折り笛を奏でて過ごす。皆が思う程に恐ろしい方ではないと解っていた。その名が偽りの物である事を知っていた。なのに私は、羅刹殿が女性であると……気付かずにいた。
「今日は……おいでなのだろうか?」
宴の席を好まないという羅刹殿に会う機会は、それ程多くなくかった。兄上と共に重盛殿の邸を訪れる時が数少ない機会で、その日も惟盛殿を訪ねると言う兄上と別れ、羅刹殿の局へ向かっていた。通り様、御簾の奥から聞こえたのは言い争うような声だった。
「あれは惟盛と同じく我が息子。それを認められぬと申すか」
「しかし、素性も知れぬ卑しき身分の者と伺います。その様な者が惟盛様と同じく身を並べるなど…」
「黙れ!お前の行いは惟盛をも貶めたのだと解らぬか?!」
重盛殿の怒声を浴びているのは誰なのか知れなかったが、羅刹殿に何かあったのだという事は容易に想像出来た。その場を立ち去らねばならない……判っていたのに、そうする事が出来なかった。
「御言葉では御座いますが、あの者は名を偽るばかりか性をも偽り、重盛様方を籠絡し、一門の者を誑かそうとする間者としか思えませぬ」
「それが本心だと言うのならば――その雁首、叩き落してくれようか」
羅刹殿が間者など、有り得ない。それは、実しやかに流される噂でしかない。だが……名を偽り、性を偽る?……羅刹殿は息子ではなく、娘――女性だという事なのか?思考を巡らせる時は長く続かず、重盛殿に招き入れられたその場所には、惟盛殿までもが座していた。そして私は……羅刹殿の真名を知り、この地に留まる理由をも知ったのだ。
◆◇◆◇◆
夢は嫌い。この世界に来てからは、どうしてか昔を思い出す夢ばかり見る。懐かしくて、嬉しくて、それでも悲しいだけ。直ぐに消えてしまう、短い時間の幻。浸ることは許されず、避ける事も出来ず、無理矢理連れ去られて翻弄されるばかりで、その直後には叩き落される。
どんなに心地良くても居続ける事は出来なくて、拒めなくて、でも浸っていたい。自分がとても……弱くなっているような気がする。強くなければいけない。誰にも脅かされないよう、弱味を曝け出す事の無いよう、敢然と立ち向かわなければいけない。なのに――それが出来ない。だから、夢は嫌い。
「おはよう、姉さん。兄さんは…?まだ起きてこないのか」
コーヒーとオムレツの香りが漂う朝の食卓
「しょうがないだろ?遅刻する訳でもなきゃ、別に構わねぇし」
他愛無い事を言い合う登下校の道
「ねえ、ちゃん。お昼、どこで食べようか?」
いつも優しく私に触れる人達
「その内教えてやろう。必要になる事があればの話だがな」
確かに居たのに、記憶でしかない大勢の家族
「あなたには…解る時が来るのでしょうね」
私には、何が解っていて……何が解っていないんだろう?微笑むばかりの父様と母様は何も答えてはくれず、そこに立っているばかり。真剣な表情のお祖父様とお祖母様は、何も答えずそこを発ってしまう。真っ暗な空間に引きずり込まれるようにして。いつもいつも見る夢は、そうして記憶され――蓄積されていく。忘れる事も出来ず、嵩を増して。
誰か、私を覚えていて。そして、それを忘れないでいて。
夢の中の私は、いつも誰かに縋り付くようにして……心の中で泣いていた。表面上は、極普通に笑いながら喋っているのに。
◆◇◆◇◆
目覚めてからが大変だった。父上の御小言は長く続き、敦盛に私の素性を知らせたと聞いた。知盛は然して変わる事も無く淡々としていたけれど、重衡は重病人を見舞うかのようにして土産を寄越した。景時は只管良かったと繰り返し、嫌と言う程に無茶をするなと釘を刺された。それから――。何事も無かったのように日々は繰り返され、私の生活は変わった。三人を探す事よりも一族を探す事に重点を置き、京を巡る。けれど、その生活は――長くは続かなかった。
「父上、只今戻りました」
「か…ここへ」
春先に倒れて以来、体調は悪化の一途を辿っていた。こうなってしまうのではと思っていた。覚悟は―――していた。ここに来た当時から知っていた事だった。そうならなければ良い。そうでなくともおかしくない。そうあって欲しくない。そう思っていたのに。
「知盛、重衡、惟盛も……皆、外へ」
残されたのは景時と私だけで、何を言われるのかと一抹の不安が過ぎった。父上が亡くなれば、私はここで邪魔者にしかならないのかも知れない。景時が居るという事は、監視役としての任を果たす為なんだろう。
何を言われても、どうする気も無かった。ただ、死ねと言われる以外なら。兄上に仕えろと言われようが、平家を出ろと言われようが構わなかった。
「、皆を……頼む」
「父上?それはどういう…」
「平家の辿る道は察しておろう。そなたならば……な」
何も――言えなかった。恐らく、年代の違いは然程無い。確実に滅亡への道を辿っている事は確かだ。清盛を諌め、一族を纏め、その名を轟かせてきた武人、平重盛。父上が居なくなってしまえば、衰退は早まっていく。それは火を見るより明らかな事で、――誰もが目を背けている事でもある。それを真っ向から見据えている父上に、言える事など無い。
「景時。今、この時よりに仕えよ。主として……最後の命だ」
「…御意」
「我が娘を……を頼んだぞ」
「お言葉、しかと賜りました」
「父上、何を…」
「そなたの……右腕になる者が必要だろう?景時ならば差し支えもあるまい。なぁに、知盛と重衡にも伝えてある。案ずるな……皆、お前の助けになるであろう」
「ですがそれでは……兄上はどうなさるおつもりです?!」
「……あれも、戦は望まぬだろうよ。兵を率いるには向くまいて。全ての者を、とは言わぬ。戦えぬ者だけで構わぬ。ただ平穏を望む者達を率い、落ち延びて……生きよ」
「父上っ!!」
口から零れる言葉と、それを止めてしまう吐血。苦痛に歪む表情を隠して告げられた言葉は、私にとっては思ってもいなかったもの。父上の遺志――私に望む事。父様と同じ……落ち延びてでも、生きろと。最後の最後まで、一族を守る事だけを考えていた父上。もう二度と、その目が開く事はなくなってしまった。
「父上の遺志、今ここで――私が継ぐと誓います」
私は、この人に拾われて良かった――そう、思った。
◆◇◆◇◆
父上が亡くなり、兄上が将として軍を率いるようになって一年が過ぎた頃。大きな戦が迫っていた。石橋山の戦いで、梶原景時が平家から離反する。避けられないだろう事。富士川の戦いは、平惟盛が水鳥の羽音に驚いて逃げ出し、清盛の逆鱗に触れたとも伝えられている戦。出来る事なら、二人を違う場所へ行かせたかった。けれどもそれは叶わず、史実通りに幕が開けてしまった
「負傷者の手当てを優先しろ。動ける者は早々に出立準備を整えよ!」
「羅刹殿!山端に人影が!!恐らく頼朝ではないかと、」
「景時は何処に?!」
斥候兵の情報は、離反の切っ掛けを知らせていた。戦いには勝利したが、頼朝は逃亡――ここまでは歴史通りだ。このまま進めば景時は源氏に寝返る。それを避けるためには、別の人間が行けば良い。最もその場に適した人間が。そう。既に指示は行き渡っているのだから、ここを景時に任せて私が行けば良い。それが最善の判断だと、信じて疑わなかった。
「梶原殿でしたら、幕外で負傷者達を…」
「私が追う。腕の立つ者を揃えよ!少数で構わぬが負傷者は要らぬ」
「はっ!直ちに」
陣幕の外には、負傷者達に紛れて出立準備を整えている景時が居た。あちこちに声をかけながら近寄れば、戦いが終った事に安堵の念を浮かべる者達や戦功を挙げられずに肩を落としている者達、死んだ者達を弔う者達。様々な表情と感情が渦巻いている中でただ一人、生き延びられた事を喜んで帰還準備を促す後姿に向けて名前を呼ぶ。振り向いた時の酷く嬉しそうな笑顔は、私を見た瞬間に掻き消されていた。
「景時、ここを任せる。私が戻らなくとも待つ必要は無い」
「なっ……どこへ行くつもり?」
「私は頼朝を追う。その後、生きていれば直ぐに戻る」
「ちょ…ちょっと待ってよ。何も…」
「これは命令だ……景時。戻らなければ死んだと報告して良い」
「……御意」
これ以上逆らえないように命令という単語を出した後、またいつもの微笑みが浮かんだ。悲しそうで辛そうなその表情は、いつも見慣れていたのに。何故か不意に聞きたくなったのは、これが最後のチャンスかもしれないと感じていたからなのか、それとも……徒に運命を変えようとしている事への罪悪感を紛らわせる為だったのかもしれない。
「景時、何故いつも辛そうに笑うの?」
「え?オレ……辛そうに見えちゃってるかな〜」
「うん。前からずっと気になってた」
「そっか……君には辛そうに見えちゃうんだね。オレは…」
その答えは、無常にも遮られる。無視する事の出来ない、急を要する伝達によって。私は急がなければならなかった。景時の離反を避ける為に、頼朝を追わなければならなかった。
「羅刹殿!部隊の仕度、整いまして御座います!」
「あ、ほら。準備が出来たみたいだよ?オレの事はまた帰ってから……ね?」
そう言ってまた同じように笑っていたのが、目に焼き付いて離れなかった。帰ってから、また話をしよう。話が出来ると――疑いもしなかった。
◆◇◆◇◆
が陣を出て間も無く、馬に掛けられたような満身創痍の兵が戻った。血塗れの身体で小さく呟くのは、頼朝に討たれた仲間の事。部隊は得体の知れない力に一瞬にして全滅した。しかも、相手は細君を連れているだけ。たった二人の人間に……数十人の兵が。の連れて行った兵は、十にも満たない。せめて連れ戻せる距離にいてくれと願いながら、馬を駆ったのに。
「――っ?!!……くっ」
間に合う筈が無かった。オレが目にしたのは、頼朝に斬り掛かる。その後に続く兵達。その一瞬後にあったのは……次々と倒れていく味方と、禍々しい空気に取り巻かれている二人の姿だけだった。何が起きたのかなんて、全く判らなかった。ただ、辺りを染め上げた血飛沫の中に――だけが見えていた。
「あらあら。そんな所に隠れていないで…出ていらっしゃいな」
「な――っ?!」
「そんなに恐がらずとも良いのに。……名前を教えて下さるでしょう?」
「梶原……景時」
くすくすと心底楽しそうに笑い声を上げるその姿はまるで子供が遊んでいる時のようなのに、その周りの空気は異様過ぎる程のもの。血の臭いに満ちたその場所で、オレに出来る事は……たった一つしか残っていなかった。
せめて、生きていて欲しい。オレの事なんて、裏切り者と罵ってくれて構わない。既に事切れている兵達を拝む振りをして結界を張り、式神を打った。
「まあ…心優しい人。きっと死者達も喜んでくれますわ」
「行くぞ…景時」
「――はい」
オレは、君を守る事なんて出来なくて。君を助ける事すら出来なくて。けれど、このまま死ぬまで後悔しても良い。君が生きていてくれるのなら。もし、この先に出会う事があっても……その時は、きっと敵同士だから。――もう二度と会う事は出来ないだろうけど、それでもオレを忘れないで。憎んでも、怨んでも良いから、せめてオレを――覚えていて?
◆◇◆◇◆
いつまでも現れぬの部隊を待ち、伝令も来ず痺れを切らした頃。視界の端に小さな梟を捉えた。
「昼中の梟……梶原、か」
手に触れた刹那。血溜まりに横たわるの姿と、その場所が頭に流れ込んだ。態々式神を使うなど、事態は芳しくないという事か。
「全軍、出立しろ。……俺は羅刹の隊へ行く」
返事を聞く間には馬を駆り、その姿を探していた。そう遠くもない川縁で、赤く染まった小桜縅が横たわる。数体の骸を越え、顔を上向けると……微かに歪む唇が見えた。
「クッ……存外、悪運の強い女だ」
僅かながら手に吹きかかる息に安堵するも、このままでは保たんだろう。陽が落ちる前に麓へ、手当てをすべく。抱き抱え、辺りを見遣れば……正に血の海の只中。
「梶原がおらんな……寝返ったか」
目覚めた時にはさぞ煩かろう。だが……それもまた一興か。
◆◇◆◇◆
富士川から戻ってみれば、父上は怒り心頭の御様子。まさかあのような負け戦になるなどとは誰もが思っていなかったのだから、無理も無い事でしょう。石橋山では頼朝を逃したものの、見事な勝利を収めたというのだから尚の事。戦功を挙げたと比べられ、失態を責められる惟盛殿を少々気の毒に思っていたのは昨日の事。あの時の事を思えば、無事帰還出来ただけでも良いのでしょうが。
「どういうことです?兄上も羅刹殿も……お二人揃って行方が知れぬなど」
「事実に御座いますれば。しかし、知盛様は羅刹童子殿の部隊へ向かったと聞き及んでおります」
に何かあった……。そうとしか考えられない。兄上が動かれるほどの事、恐らく生死に関わる。全軍が戻るまでの間、それ以上の報告は無いまま…。漸く戻った両部隊の中にはお二人の姿どころか景時の姿も無く、告げられたのは――絶望的な見解だった。
「一体、何があったというのです」
頼朝を追った。その後異常に気付き、後を追った景時。どちらも戻らず。両部隊へ撤退を告げ、そのまま去った兄上の行方も知れぬままとは……。
「申し訳ありません。斥候の者も既に死んでおります故…」
それから丸一日も経たぬ間とはいえ生きた心地もせずに過ごし、明け方頃。やにわに騒がしくなった方へ急ぎ駆ければ、修羅の如き様相の兄上が幽鬼の如き姿のを抱き抱え、馬を降りているところに出くわした。血の気の失せたその頬は、青白く……死者としか思えず。
「兄上!何故このような事に――っ?!」
「騒ぐな……死んではいない。死体ならば、放ってくるさ」
身体中に見える傷からの出血は無いものの、恐らく多量の血を失っている。本格的な傷の手当を施すのであれば、薬師を呼ばねばならなかった。がどれ程厭うていようとも、命に関わる事ならば致し方ない。しかし、それを止めたのは兄上だった。峠は越している、安静にすれば良いと。私がそれを押し切れなかったのは、あまりにも優しげな笑みを浮かべた兄上に、w世話するよう告げられたから。ならば、あなたが目覚めるその時まで――ただ傍らで見守ろうと決めた。

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え、え〜っと。何だか暗いですねぇ。しかも、また思ったよりクローズアップしてるし。(んな事やってっから、いつまで経っても俺が出せないんだろうが!)
出来れば次回は将臣を出して、さんをちょろちょろさせたいんですよね〜。んでもって、この節の番外編も作りたいんですが、何故か忙しい時には色んな事が、どわーっと重なるもので……一体どうなる事やら。(おまっ…どうにかしろよ。いつまで俺を放っておくつもりだ?)
ま、諦めるつもりは更々無いので、ちびちび打ち込んでいこうかなぁ…と。見捨てないでくれる皆さん、ありがとう。気長に付き合ってやってください。(へいへい。最後まで見捨てられてねぇと良いけどな)
相方は、中々出て来る事が出来ずに腐っている将臣でした!(お前が腐らせてるんだろうが?!ったく…ま、偶には俺にも会いに来てくれよ?)
橘朋美
FileNo.008 2006/10/28 ※2010/10/2修正加筆 |