明けの御使い



人は来しとて、いずれ去り行くもの。去りて後、共に在りし時を忘れ去るには足りぬ幾年か。だが、その姿を追い求めるほどには幼くもない。九郎達が平泉を訪れたのは、が去った幾月か後だった。兄の力になる為、いずれ来るであろうその時まで身を隠す為にと。父が九郎の後ろ盾となる事を約した幾月か後、俺の守るべきものが一つ増えた。

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それが現れたのは明けの頃。日が長くなったとはいえ、明け方の冷気は吐く息を濁らせる。まだ春遠きこの地では、池の凍り付く日々が続くというのに。怨霊なのか妖か――。どちらにせよ、大蛇と呼ぶのが相応しいだろう。白い躯をうねらせ此方へ寄る様は、異様なほど静かだった。冬籠りの時期にある筈のものが何故現れたのか。答えを導き出すには時が足りず、眼前に身の丈以上ある蛇の頭が擡げられていた。その口が開いた時、零れたのは驚嘆の息。

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『お前が藤原泰衡か。我が主よりの品、受け取るが良い』

人の言葉を話す蛇など、居よう筈も無い。どこぞの式神か――いや、術による物ならば結界を越えられぬ。恐らく、よほど力のある妖なのだろう。

『その耳は飾りか』

「これは失礼。見知った蛇などおらぬのでな」

『この姿は仮のものだ。無論、我が主も蛇ではない』

このような大層なものを従え得る人物か。咄嗟に浮かぶ名はただ一つ。俺の師とも言うべき人。忘れ得ぬ、不可思議な女性。

「ならば本来の姿で来られよ」

『我が主の命ならばそうしよう』

「では、早々に用を済ませて立ち去るが良い」

暫くすれば慌しく人が行き交うだろう刻限にこのようなものが居れば、混乱は避けられまい。騒ぎが起きれば……。今、動けなくなっては困る。

『言われずとも』

「これは――鱗か。俺にどうしろと?」

『己で考えるが良い』

目の前に浮かべられた物を手に取れば、音も立てずに去ろうとする大蛇。残されたのは、手の平ほどの韓紅。鏡面の如く滑らかなそれは、あの使いの物とは思えぬ色の鱗。

『確かに渡したぞ』

遠ざかる毎に薄く、小さくなってゆく白蛇の残した言葉に苛立ちを覚え、漸うと昇る朝日に照らされた鱗を胸に仕舞って踵を返す。人の声に追われるように執務へ戻るも、頭の中は鱗の事で占められていた。

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「戻ったか…雷矢」

未だ薄暗いままの庵。人寄らぬ山深く…ここへ来たのはどれほど振りか。時折風の抜ける音と鳥の囀り。獣の気配が感じられるだけの空間。ここに暮らした頃の姫は難なく眠っていられたものをと、詮無い考えが浮かぶ。

「ああ。命は果たしたからな」

何十という年を経たとて…好奇心の旺盛さは変わらぬまま。此度の写影も…その表れ、と言うべきなのだろう。元は人であった我が主は…その身体に似合わぬ存外子供染みた心を持ち続け、生きている。

「そうか。姫が此方へ向かっているようだ」

微かに感じる気は…間違い無く我等が主のもの。彼の地を出たとは…予期せぬ事態に見舞われたか。

「天姫がここへ?何かあったという事か」

そうでなくば…何かを要し、望んで離れたのか。何れにせよ…直に知れる事。川面に渡る風も、その訪ないを告げる如く…清かに流れていた。

「南、西、ともに騒がぬ。凶事では無かろう」

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陰に置き、日向に置き、水面に浮かべ、火に翳す。合間を縫っては試し、試しては失望し、また次の手を。今日一日、それを幾度繰り返したか。鱗は幾刻を過ぎようと乾きもせず、ただ静かに艶やかな色を保ち続けるだけ。これが俺に託された物ならば、何か意味がある筈。

「だが、どうしたものか」

言伝が無い以上これに術が施されているのは明らかで、それを解かねば知り得ぬ事があるという事も明らか。これまで便りの無かった事を思えば、それは余程の事としか思えぬ。あれから季節は流れ、年を経て、今の平泉を脅かすものは無いまま。だが東と西を治めれば、次は当然北を治めようとするだろう。そうなれば、先の平泉を脅かすのは――恐らく源氏。

「このような時期に、このような物を寄越すとは」

微かに聞こえたのは暗がりの中、それを月に翳した時。確かに覚えているその声は、紛れもなくあの人のもの。杯を落とし、表へ……月の光を求めるようにして足を踏み出していた。陽に翳せば緋色に輝いた鱗が、月に翳せば真紅に染まる。その有り得ない事象は、正しく俺の求めた答え。懐かしき姿。忘れ得ぬ、迦陵頻伽の如き声が響いていた。

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「そのような事を…賛成出来ると思うか?!」

空を翔け戻る事も出来ずに人型のまま道を辿ったが、平泉を出るより先に目的は果たされた。余程急いていたのだろう、天姫はすぐさま口を開こうとしていた。

「誰が反対しようと、やるって言ったらやる。私一人でもやるからね」

万全を喫し、人に覚られない場所――庵へ舞い戻り数刻。繰り返される遣り取りは水掛け論でしかなく、次第に激しさを増していた。

「一人でだと?そんな事出来る訳ねぇだろうが!」

いつもの如く炎尾は怒り、風牙は諍いを諌めようとする。だが、霧鎖がこうも感情を露にするとは、珍しい事もあるものだ。

「だから俺達が助けるんだよ。何度もそう言っているじゃないか」

参眼を操ろうとする事に反対している霧鎖と炎尾。危険だと知りつつも遣るべきだと押すのは風牙と天姫。

「ねぇ雷矢は?協力してくれないの?」

同じ失敗を繰り返さない為に、より上の力を求めるのは当然。それが危険だと判っていても、止める事が出来ないのなら。

「私はあなたの意に従う。だが、こちらの条件も呑んでもらおう」

参眼を開こうとも人界に害を与えぬ空間を作る。それは出来ぬ相談ではない。だが、天姫の言うように人も物も無く、時の流れさえも無い結界を作るならば。

「はぁ……また交換条件って訳ね」

たとえどのような状態であろうと、身体に負担が表れれば即座に休息を取る事。結界内への供に、必ず風牙と私を連れる事。それが最低限の備えだ。

「不服だろうと、これ以上譲歩は出来ん」

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これまで使えなかった力を使えるようになれば結果を変えられるかもしれない。そう思ったからこそ、守人達を説得して練習を始めたんだけどなぁ。意識を集中して神力を参眼に集めて解放しろ、な〜んて言われても……ね。自分ではそうしてるつもりなのに、それは只の暴走でしかないなんて。神力を集めようと集中すれば、それが参眼に集まるのを感じるのに。

「なんで巧く操れないんだろう」

いくら時間を気にせずにいられるとしても、進歩が無ければ意味が無い。何も無い空間に煌珠を上げてから、もう何日経ったんだろう。失敗する度に雷矢と風牙に押さえ付けられて、正気を取り戻す度にやり直す。何度もそれを繰り返す内に庵に連れ戻されて、食事と仮眠の後には霧鎖と炎尾にも助言を受けて。次こそはと思いながら、また失敗を繰り返す。回を重ねる毎に、諦めた方が良いって言われる回数が増えていく。

「ここで諦めたら女が廃る――ってね。意地でも成功させてやる」

朝一番。まだ寒い山の中で陽を浴びながら、挫けそうになっている自分に言い聞かせる。兄さんに出来る事なら、私にも出来る筈。出来ない筈がない。最初は偶然に開かれた参眼を、次は無意識とはいえ自分で開いたんだから。それを覚えている今なら、意識して操れるようになれる。そう思い込まないと……悔しくて――泣きそうだった。

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それも、幻なのかと思った。

「何をしている?!」

鎌倉殿に加護を与える異国の神、茶吉尼天。それに対抗する手立てを得る為に領内を巡る日々が始まったのは、大蛇が現れるよりも幾月か前の事。そして今、その力を求めて道を辿る。途中で目にした光景に声を上げ、同時にその場へ駆けていた。平泉を去ったあの晩、あの時のままのが……川に身を浸している場所へ。

「何って……泰衡?久し振りだね、直に会うのは」

漆黒の装束が水を吸い、幾分か青褪めて見える顔色と相俟って死者を導く御使いの如く静かな笑みを浮かべる。何を言うよりも先に水から上がるように促し、馬上へ抱え上げたのは当然の事。目を覚ます為に顔を洗っていたと言うの身体は氷のように冷たくなっていたが、当の本人には震える様子すら窺えなかった。

「まったく。このような季節に川に浸かるなど、正気の沙汰ではない」

平泉を去った後、どこでどう過ごしていたのか。何故また……今、この時に平泉へ戻って来たのか。あの大蛇の事。鱗から出た幻の事。聞きたい事、知りたい事は山ほど有る。だが、口から出るのは昔の遣り取りのように他愛ないものばかりだった。

「それなりに寒かったけど、目は覚めたよ」

あなたの変わらぬ言動も、昔のままに。



     

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(壁紙:薫風館/杜若様)
韓紅

からくれない
緋色

ひいろ
真紅

しんく

章間穴埋め話、次でお終い。
本当は一話で終らせるつもりだったのになぁ。





橘朋美








FileNo.109_01 2008/3/11 ※2010/10/5修正加筆