雪見御所へ――それはもう、止められないと判っていた。
たとえそれが意味する事を解っていても。
間違いでなければ、それを止めてはならないのだ。



煌めく朝



気の進まぬままここで過ごすようになり、十日もした頃。我々の前に現れた時、既に予兆はあった。いつにも増して表情の浮かばぬ顔。色の薄い肌からは、弱まった生気を感じるだけだ。

「やはり眠れないのか」

人型を取れぬまま暗闇に浮かぶ人影に近付けば、小さく笑うような息だけが聞こえる。この身体では近くでその表情を窺う事も出来ず、ただその足元に忍び寄る。

「大丈夫。いつもの事だよ」

信頼出来ぬ者と敵意を向ける者だけが居るこの邸で、結界も張らずに眠れる筈も無い。以前にも増して気の偏った場で過ごす事が、その身をどれほど疲弊させているのか。

「そうだとしても、それを鵜呑みに出来ると思うか」

たとえ堪える事に慣れているとしても、それは何も感じていないのとは違う。何も言わず池の縁に沿い歩き、ふと腰を折って此方へ目を向け告げられた言葉は――。

「雷矢……あまり心配ばかりしてると、禿げるよ?」

思わず抗議の声を上げようとしたが、思い止まり鎌首を擡げる。本物がする威嚇と同じように啾啾と息を吐き、舌を揺らしていた。池の中から現れた四方の一人が、天姫の向こう側で惚けた事を言うまで。

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姫の気が…こちらへ近付く。何かを決意したような揺ぎ無さと、不安定な位置にある脆さが交じり合った落ち着かぬ気が。

「髪は神力の顕れだ。我等がそれを失う事は無い」

池から這い上がり…その足元に辿り着くまでの長い事。自らの足で歩けぬとは…もどかしいものだ。水の中ならば自在になる身体も、地にあってはな。

「そう。ねぇ霧鎖、平泉へ行ってくれない?」

然程の驚きは無いが…それが何を意味するのか。守人が別たれれば、その護りも別たれる。ここで過ごす内に…もし何かあれば。

「それがお前の命ならば従うが…護りは薄れるのだぞ?」

眠れぬままに夜を過ごし…時折ふらりと空を眺める。その姿を幾度見上げてきた事か。時が流れるにつれ、薄れた筈の警戒心が…再び膨れ上がっている。

「解ってる。けど、知りたい事があるから調べてきて」

落ち着かぬ気の元はそれか。問うまでも無く告げられる。この戦に関わる勢力の動向と目的。それを集めて参れと…我が主が。

「鎌倉の地には入れぬが…それは構わぬのだろうな?」

茶吉尼天の巣食う彼の地。張り巡らされた蜘蛛の巣を掻い潜るのならば…それ相応の策と力が要る。我等の力のみでは…それは適わぬ故。

「福原から西と、京と鎌倉は省いて良いよ」

二人で東から北へ向かえと告げられた後、再び威嚇する蛇。それを意に介さず腕に絡ませ、私を抱える。邸の外れへと誘われた頃…空は白々と明けようとしていた。

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眠れないままじゃ弱っていく。それを判っていても、俺等がどうこう出来る範疇じゃなかった。これ以上怪しまれる訳にはいかないとか言って、結界も脹らせやしねえ。

「せめて大人しく横になってりゃ良いじゃねぇか」

狭い庭で太刀を振り回して人と遊んでるよりは、横になっているだけでも身体も精神も休まるだろうに。それに、今朝は四方の内二人の気が遠ざかって行った。何が知りたいのか見当は付くが、ここまでするとはな。

「眠い」

通り掛けに口にしたのは、半月が過ぎた頃だったか。無意識にしろ何にしろ、相当参ってるんだって判った。ここらが引き上げ時なんじゃないかって風牙の奴と相談し始めた頃、舞がどうのとか言い出したんだ。

「そういや、あんたは舞った事が無かったな」

舞なんて舞える訳が無いとか、人事だと思ってとかぶつぶつ言ってたな。天帝が舞うのを見たのは、もう何十年前だったか。そんな暢気な事を考えながら、幾晩か狭い空間で羽を休めた。

「やっぱり、慣れない事をするとよく眠れるんだね」

笑って朝を迎えたのは、最初の一夜だけだった。それからは舞う時が増えて、眠る時は減る一方で。見兼ねた俺等がしつこく言い続けた幾日か後。漸く達した妥協案は――屋根にある死角で結界を張る事だった。

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時折聞こえる声は、夢を見ている所為なんだろう。深く眠れなくても、身体が眠っているならそれで良い。結界の中でなら、こうして寝られるんだから。

「確かにこれなら人には見えねぇけどな」

山を背にした邸の裏手、屋根に積もった雪を除いた場所に寝るだなんてね。陽の温もりで包み、風の壁で囲む。隔絶された小さな空間を作っている間に、瞼は閉じられていた。

「何かあるまで起こさないで、って言われているからね〜」

少し煩くなってきたけれど、何かあった訳じゃない。少しでも深く、少しでも長く眠らせたい。誰にも邪魔されないように。

「大体、こんなトコで結界も幻術も使わないで過ごすってのが間違ってんだよ」

下を行き交う人が消えて、忌々しそうに炎尾が呟いた。幻術を使えば本人は外に居られるし、結界を張れば邪魔な気との接触を防ぐ事が出来る。なのに、俺達はそれを許されていないから。

「本人にその気が無いんだから、仕方無いね」

夜には静かに降り積もる雪に覆われて、明けにはその存在すら感じさせなかった人型の繭。それは、朝には地に抱かれるのを望むようにして――滑り落ちた。

「ちっ。厄介な事になったな」

千尋の谷へ落ちようと、水面の下へ沈もうと、その繭は崩れはしない。お嬢が目覚めるか、お嬢を望む者が触れない限り。俺達はもう、周囲を警戒するしか術が無かった。

「将臣まで来たのか。……人というのも、案外しつこい生き物だねぇ」

咽喉笛を掻かれても、瞼を突かれても足を止めない。矢を射る雑兵は威嚇すれば簡単に諦めてくれたというのに。お前達の猜疑心が、お嬢を苛ませているのに。

「おい、っ――……」

小さな呟きが合図だったようにして、結界が解けてしまう。おはようと言いながら起き上がり、寄り添う俺達を一撫でする。その姿は、雪に弾かれた光で煌めいていた。



     

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(壁紙:薫風館/杜若さま)

章間平家編、中盤最終話。意表を衝いて守人達を。
主人公観察日記のような気がしないでも無い。





橘朋美








FileNo.107_04 2008/1/26 ※2010/10/5修正加筆