桜散る
三章八


「……行こう、みんな。今は、少しでもここから離れなくちゃ!」

仲間の乗り移った船は朔殿を迎えた後、ヒノエの手によりすぐさまその場を後にしようとした。リズ先生とをあの場に残して来た事は、誰もが気にかけてはいたけれど……。望美さんの強い声で、その迷いを胸の奥に押し込んだようだった。

先ほど現れたの仲間のお陰か、船の周囲には戦意のある兵の姿は見えない。けれど、それは気休めにしかならなかった。それなりの準備を整えてあったのならともかく、周囲を取り囲む軍船と比べれば小船でしかないこの船には、碌な武器や道具も無いのだから。

「……兵法終計逃げるに如かず、ってね。しっかり掴まってなよ!」

「駄目です先輩!!先輩は、朔の事を頼みます!」

どこからか射掛けられた矢が、鼻先を掠めるようにして船板に刺さった時。何人かが立ち上がって――飛んで来た矢を落とそうと、それぞれの武器を構えた。その中には望美さんの姿もあったようだけれど……。譲くんの機転で、朔殿と共に皆の作った死角へと庇われたようだ。

「ヒノエ、急いでくれ。……あちらにも兵が現れたようだ」

「くそっ!このままじゃ、あっという間に針鼠だぜ?!」

高い位置から狙いを定められた矢は、波間に揺らぐ的に向かって容赦無く飛んで来る。そして――事実上、平家を討ち取ったばかりで血気盛んな源氏の兵達と、仲間を欠いて僅かな数で逃げ出した僕達。多勢に無勢というしか無い状況と、何より厄介なのは――。

「何故…………どうしてこんな事になってしまったんだ」

「……ごめんなさい。兄上の所為で、こんな――」

景時の裏切りと頼朝殿の仕打ちで、動揺したまま動けない人が居る事だ。それが朔殿だけなら、大して問題にはならなかった。元より怨霊相手にその力を振るう為だけに同行していた朔殿の事は、今この場での戦力として数に加えるつもりは無かったのだから。でも九郎は……。

「弁慶……?」

「いい加減にして下さい、九郎」

両手で胸倉を掴んで九郎を立ち上がらせた僕は、のようにその頬を張る事は出来なかったけれど。まるで死者のように虚ろな顔をした九郎に向かって、声を荒げていた。

「悔やむなら、この場を逃れて落ち着いてからでも遅くはないでしょう」

「弁慶――。だが……俺は、」

「リズ先生やが命懸けで作ってくれたこの機会を、自ら潰すと言うんですか?君はそんなに情けない人だったんですか?!」

僕は、こんな所で九郎を死なせる為に戦って来たんじゃない。その立場を利用し、騙し続けては来たけれど……それでも。

「先生や、……が?」

「ええ、まだあの船に残っています。僕達を逃がす為に」

出来る事なら。僕の目的を果たす場所は、ここであれば良い。疑う事を知らず、真っ直ぐな目で。どんな状況にあっても、僕を信じて友と呼んでくれた君の居る所であれば良いと。そう思って来たんです。

「俺は――」

二人の名前を耳にした事で、少しでも自分を取り戻したのか。驚きに見開かれた九郎の目には、先ほどまでとは違い、確かな光が宿っていた。

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抱き上げたその身体は、傷付いた獣を思い起こさせた。身を竦ませ、小さく震える。傷が痛むのか時折り小さく呻き、息を呑む音も聞こえた。そして――神子達の乗った船は暫くして波間を滑るように進み、ここで足止めをする必要も無くなったのだが……。

「――景時。この場はお前の好きにせよ」

「頼朝様?」

恐らくは追っ手を差し向ける為だろう。頼朝がこの場を去り、その後ろを守っていた兵達が後を追った。船上から我々以外の人が消え、沈黙が辺りを支配する。

景時が裏切る事を、私は知っていた。そして、それが神子や九郎を守る為の行動である事も、また知っている。だが――、これまで幾度も巡った運命の中で、このような事態に陥る事など一度も無かったという事も……また事実。

「私は神子に従う八葉だ。だが……、」

「……………………」

「これからは九郎を助け、を守る者にもなろう」

景時が表情を変えたのは刹那の事だったが、それは確かに――。あの者がよく見せていた、諦めを乗せた悲しげな笑みだった。

「頼朝様の計らいだから……。今だけは、見逃すよ」

「……そうか。行くぞ、。しっかり掴まっていろ」

武器を収め、背を向けた景時を見たまま。私は一族の力を使い、神子達を追った。だが、少し離れた位置にある船に降りる事は出来ず、その近くにある船へと降り立っていた。

「リズヴァーン、もしかして……見失った?」

「いや、そうではない。だが、今近付くのは危険だ」

辺りの船から飛び交う矢を、八葉達が打ち落としているのだ。下手に姿を現せば、こちらと気付く前に攻撃を受ける可能性もあるだろう。それに、の怪我の事もある。今あの場へ降りれば――八葉達の邪魔をする事にも成りかねない。

「――?すまない、暫く辛抱してくれ。この船も安全ではなかったようだ」

「ん?はぅあぁ……、お手柔らかに」

もう随分と見る事の無かった懐かしい素のままの態度に、つい頬が緩む。このような状況で何を……と、思いもしたが。今この腕の中にある存在を、どれほど守りたいと望んで来たか。夏の熊野で耳にしたあの一言が、どれだけ私を悩ませたか。お前はそれを、知らないだろう。

「もう大丈夫だ。……………………、」

「よぉリズヴァーン、久し振りだな。大活躍だったじゃねーか」

いつか伝えようとしていた思いを、今なら伝える事が出来るのかもしれない。そんな予感に口を開いた私を止めたのは、幼い頃からの知り合いだった。

「うぁ、炎尾……」

「嬢、お前また無茶しやがって!まあ良い。今はそれどころじゃねぇしな」

与えられた情報は、差し向けられた追っ手の数が尋常ではないという事だった。どうやら平家の残党と戦っていた兵達までをも呼び戻し、総力を挙げて九郎一行を捕らえよと命じたらしい。その所為もあり、神子達の乗る船へ仕掛けられる攻撃も中々止まず、他の男達もの命じたまま援護を続けているのだという。

「そう。じゃあ……っ、」

「ああ、俺等は追っ手の船を潰してから合流する。それと、嬢が怪我してんのは全員が解ってるからな。後で覚悟しとけよ?」

弱弱しい笑みを浮かべただけのと、悪態を吐きながらもその髪を愛しむように撫でる炎尾。目の前で繰り広げられるその光景が、心をざわめかせる。その姿は、まるで――。

「おい!聞いてんのか?船に移るまで援護してやるから、さっさと行け」

「あ……ああ、解った。では――行くぞ」

その瞬間。人ではない者の力が放たれ、炎に包まれた矢が次々と海に落ちて行くのが見えた。漸く神子達の元へ辿り着いた時。辺りは既に薄闇に染まり、空には星が瞬いていた。

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「先生!!」

人ではない者の力が使われ、それに気を取られていた時。神子の声で、何が起きたのかを知った。これで、今八葉である者が全て揃った。

「神子、油断してはならない」

新たに飛んで来た矢が斬り落とされ、怪異だと恐れていた兵達が再び矢を放ったんだって、みんなが気付いた。けれど私は……が来た時から、ずっと気になっている事があったから。どうしても、それを知りたくて――。リズヴァーンの腕の中で苦しそうに顔を歪めるに近寄って、尋ねた。

「どう、したの?はくりゅ……う、」

――あなたが持っているのは、」

私が感じていたのは、とても弱くなってしまった対の気配。

「ごめん、今は――っく、ぅ」

「解った。でも……お願いだ、。それを――守って」

はとても驚いていたみたいだけれど、小さく頷いてくれた。本当は、朔に託したかったのだけれど……。今の朔には、それはとても苦しい事だと思うから。朔の心が、壊れてしまうかもしれないから。――これ以上、神子を悲しませないように。朔を苦しめないように。あなたを傷付けないように。

「私も、みんなを守るから!」

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守人達と合流出来たのは、海も空も真っ暗になってからだった。知盛の事をどうしようかと悩んでいたのはお見通しだったみたいで、船の真上に来るよう結界を張って置いてきたと聞いた時にはホッとしたんだけど。その後はサラウンドで延々と続くお説教だなんて……………………最悪。

「暫くは喋らずに大人しくしていろ。肋が折れているんだぞ」

「――だからごめんって、っ……う?!あぁあああっ!!」

「そうそう、ここと――ここ、二本も。息をするのも痛いでしょ?」

飛び上がりそうになるくらい痛む箇所をトントンと突付かれて、つい声を上げる。判ってるなら触らないで!って叫びたい所だけど……そんな事をすれば自分の首を絞めるだけだから、涙目のまま顰めっ面で睨み付けるしかないわけで。

「姫…動くな。傷ならともかく、骨は簡単に治せるものではない」

「だから言っただろ?覚悟しとけよ、って」

あの時――何とか追っ手から逃げた頃には、意識が朦朧としてた。それでも気を失わなかったのは、風牙が言ったとおり。息をするのも辛い激痛のお陰だ。様子がおかしいって気付いたリズヴァーンは、直ぐに弁慶を呼んでくれたけど……。これ以上みんなを混乱させたらと思うと、診てもらうわけには行かなかった。参眼を見られたら――、私が人じゃないって知られたら――。

身体の正面だけが血塗れになってる事に気付いたのは将臣で、その危険性を指摘したのは譲で。手遅れにならない内にって言いながら手荷物を広げてる弁慶の後ろでは、九郎が何か言いたそうな顔で立ってて。必死になって説得してくれたのは、敦盛と二人の龍神の神子だった。どうして私が嫌がってるのかを気付いてた二人――白龍とヒノエは、自分達が手当てするって言ってくれたっけ。でも……暫く待つようにって言ってくれたリズヴァーンのお陰で、何とか守人達が来るのを待っていられた。誰一人、私を敵だと見做さないままでいてくれたんだ。

「さ、これでお終い。もう横になって。それにしても、随分と良く出来てる」

「そのようだな。これでは…神の加護を受けた者とて助からんだろう」

風牙の取り出した銀の弾は、昔とは比べ物にならないくらいに強化されていたみたいだ。撃ち出された弾の威力そのものも、込められている術の強さも。ただ、幸か不幸か……それを受けたのは人ではない私で。神力の強さに抑え込まれた術は、弾から出る前に消されてしまったらしい。

「ありがと……つっ、うぅ?!――はぁ」

「だから喋るなと言っている!このまま熱が上がり続ければどうなるか、」

「その辺にしとけよ。お前がそんな大声出してりゃ、嬢の傷に響くだろ」

珍しく雷矢を大人しくさせてくれた炎尾に感謝しながら、少しずつ確実に冷やされて行く身体を見る。今回は茶吉尼天が逃げたから参眼を開かずに済んだけど、いつかまた、参眼を開かなきゃいけなくなる時が来る。その時までには、話しておかなきゃいけない。私達の――正体を。

肩に頭を乗せて凭れ掛かる私を支えてくれてる風牙も、ギリギリの強さで身体を巻き付けてくれてる雷矢も、もうずっと変幻姿のまま。――こんな所を見られたら、とんでもない事になるだろうけど――炎尾の張った小さな結界の中は、霧鎖の術で満たされて肌寒いくらいに冷えてる。私の熱を冷やす為、人ではないモノを隠す為。

「どうした天姫――?なんだ、やっと眠ったのか」

「ああ、まだ息が浅いから油断出来そうにねーけどな」

「しかし…この怪我。容易に治りはしないだろう」

「せめて治るまで、無茶をしないでくれれば良いんだけどね」

守人達が溜息の合唱をしてるなんて気付きもしないまま、波のような痛みの合間を縫って眠りに就いた私が目を覚ました時。船はもう、熊野を目指して進んでいた。



     

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※兵法終計逃げるに如かず※
ヒノエの台詞に使ったこれ、当然「三十六計逃げるに如かず」が元なんですが、昔どっかで「兵法百計逃げるに如かず」って一文を読んだ覚えがあったんで、悩んだ挙句こんな造語になりました。

やっぱあれですね、好きな場面ほど熱中してサクサク書ける。けど、そういう時って往々にして長くなるんだよなー。





橘朋美







FileNo.033 2011/10/31