桜散る
三章五



海風に靡く両軍の旗は、ただ静かに状況を見守ってる。源氏も平家も、ここ――壇ノ浦を決戦の場だと決めたんだろう。沖合いに浮かぶ船団を見ながら、私にとっても正念場になるんだって気を引き締めていた。――つもりだったんだけど。

「ハァ……戻って来ないねぇ」

何度目になるか判らない溜息を零したのは、そろそろ真夜中になろうとしていた頃。この浜に着いたのは昨日の夜遅くで、夜明けまでは様子を見ようと決めた。だからって目を離すわけには行かないから、交代で見張りをしながら休む事になって――。

「お嬢はもう少し寝てなよ、炎尾か霧鎖が戻ったら起こすからさ」

そんな風にしていつもみたいに尻尾で撫で付けられると、つい瞼を閉じそうになるんだけど……何とか堪えて目を凝らす。満月に近い月が照らす海は時々小さな波が光るだけで、後は真っ暗にしか見えない。風も無い、静かな夜。今みたいな状況じゃなきゃ、のんびり月見酒でもしたいくらいだ。

「待て、戻って来た。だが――?様子がおかしい」

「様子って?…………炎尾!」

戻って来るなら当然空からだと思ってたのに、二人は海から戻って来た。龍の姿になった霧鎖が、炎尾を背中に乗せる格好で。近付いて確かめると、炎尾は気を失ってるみたいだった。見たところ外傷は無いけど、腕を掴んで揺すってみても、頬を張っても全く反応が無い。

「どうやら、良くないモノに当たったみたいだね」

霧鎖が人型に戻るより先に、風牙の重々しい声が響く。茶吉尼天が出て来たとはね、って。それは、完全に予想外だった。これまで源氏の軍を率いて来たのは九郎だったし、過去を思い返してみても――私達の居る所に茶吉尼天が現れた事なんて無かった筈。これだけ大きな戦を前にしてあの女が手を出して来るなんて。

「姫…平家から離れた船がある」

それを知らせる為にここへ戻ろうとした炎尾は、源氏方を探っていた霧鎖を探している所を茶吉尼天に見付かって攻撃されたらしい。寸での所でかわしたものの、その衝撃で海に叩き落された挙句にこの有様に――ってわけか。

「それにしても――この時期に?何か……やな感じがする」

昔、日本史の授業で習った知盛が壇ノ浦の戦で入水するっていう事以外に。もっと違う何かが起きるんじゃないかっていう、漠然とした予感がした。だけど、今はそんな得体の知れない不安に思い悩んでる暇は無い。朝になれば源氏と平家はぶつかる。なのにこの場から離れても良いのか、迷った。だけど――。いつも最後には居なかった三人の事を考えると、先ずは平家から離れた船団を追うべきなのかもしれない。朝になれば戦いが始まるっていう局面で戦線離脱するなんていう、おかしなその行動の目的を知る為にも。

「姫…追うつもりか」

「炎尾が気付いたら追って来て。雷矢、風牙、空から追おう」

沈黙を破った霧鎖の声に顔を上げて、私は無謀とも言える決断を口にした。守人達は全員でこの場を離れて平家の船団を追うという事に驚いたみたいだったけど、誰も反対はしない。私だって、もう少し状況が違えばこんな無茶はしなかったと思う。けど、茶吉尼天を相手に戦うつもりなら二手に分かれるような余裕は無いんだろうって事を、解ってたから。

「どうせ月夜を渡るなら、もっと風情が欲しい所なんだけどねぇ」

「そんな物、望むだけ無駄だ。乗れ、天姫」

肩を竦めながらぼやいた風牙と、それを睨んだ雷矢が姿を変えて行く。隠形をとって周りの景色に滲み始めた背中に飛び乗ると、夜の闇の中にある両軍の船を見渡せた。それは黒い海の上で月明かりに浮かぶ斑な影でしかなかったけれど。あそこに居る筈のみんなを護る為、あの子達の未来を諦めない為に――。

「二人とも、少しでも速く飛んで!」

少しの迷いと大きな不安を振り切るように前を向いて、そう叫んた。

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凪いだ海原を僅かながらに進む船は、驚くほど静かだった。見たところ大した武装はされておらず、見張りに立つ者は到底戦いと縁があるようには見えん。この様子では、天姫が懸念していた急襲という事態は有り得ないだろう。背にある小さな温もりは、船を目にして以来、ただ静かだった。

「どうする天姫、降りるのか?」

「そうだね、でも――」

恐らく。ここに居るのは何者なのか、疾うに感付いているのだろう。常ならば無鉄砲と言える程の行動力は鳴りを潜め、研ぎ澄まされた感覚を駆使しているばかりだ。それを責めるつもりは微塵も無いが、いつまでもこうしていては時間の無駄でしかない。

「ねぇ、お嬢。何なら俺が、」

「?――っ、二人とも降りて!!」

こちらに向かって陰気が放たれたのは叫び声よりも僅かに早かったが、それに後れを取るほど間は抜けていない。空を割り、風を巻いて海原に立てば、それは船首から我等を見据えていた。

「強大な力を扱うには、器が足らんな」

「ほう?源氏の手の者ではなかったか。お主は――?」

赤毛の男童――いや。その姿をした怨霊が不可解な視線を向けたのは、龍の姿をとった俺達ではなく天姫だ。だが、さほど驚きもせず瞬くと、さも可笑しそうに語り出した。

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この船に、三人の気配は無かった。鎌倉に捕らえられた重衡だけじゃなく、将臣や知盛も。きっと二人は……ううん。絶対、壇ノ浦に居る。なら、この船は?何の為に壇ノ浦を離れたのか、乗っているのはどんな人間なのか。私はそれを、どうしたら良いのか。船を見付けてから暫く、様子を探りながら、そんな事を考えていた。少しでも早く壇ノ浦に戻らなくちゃいけないのに、迷ってしまったんだ。碌に波の無い海上をノロノロと進もうとしている船の上に小さな影が揺れたのを見たのは、その時だった。

「一門の者達を頼むだと?都を捨てようとも生きる事が肝要だと?」

それと意識していたわけじゃないけど、以前、一度だけ会った事がある。将臣と一緒に居た所に清盛が来て、私は直ぐにその場を離れた。多分それが、誤解を生んだんだ。

「よくぞ言うたものよ。挙句、追っ手を差し向けるとは!くっ……ははっ!!」

私を睨み付けたまま罵るみたいに叫び続けた清盛の顔は、醜く歪んで行った。それは、狂笑とでも言うのがしっくり来る。

「重盛が、我を……平家を滅ぼすと言うのか!!」

長く笑っていた清盛の形相が変わって直ぐに放たれた言葉は、まるで全てを呪っているんじゃないかと思うほど、暗く、重く響き渡って――。雷矢と風牙は龍の姿を崩さず、清盛を狙ったまま。私は何も言えないまま、その小さな黒い欠片が掲げられるのを見た。

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「良かろう。ならば、我は全てを滅ぼそう」

もうこれ以上、黙って見ているわけには行かない。そう思った時だった。海を割り、波間から姿を現した龍が二体。それを目にしたお嬢の行動は、早かった。与えられた命は、ただ一つ。

「あの欠片を奪って!」

見た目とは裏腹に大きな力を持つ怨霊は小さな呪詛を無数に放ちながら力を蓄えようとしていたけれど、そんな事はさせない。力を殺ぎ、周囲を塞ぎ、陽の気を注ぐ。俺達は、ただそれだけをすれば良いんだ。後は、お嬢が思うようにすれば良い。黒龍の逆鱗を奪い返した後――。この怨霊を船ごと沈めようと、怨霊だけを消し去ろうと構わない。そんな思いと共に、俺達は互いの位置する中央に目を向けていた。

「もう諦めてよ清盛、あんたは負けたんだから」

「邪魔をするな!世には平家一門のみが在れば良いのだ!!」

何故お嬢が悲しそうな顔をしているのか、俺には……いや、きっと俺達四人には解らなかった。この期に及んであの怨霊に情けをかけようとする必要なんて無いのに。言葉を交わす意味なんてある筈も無いのに。それでもお嬢は、話す事をやめなかった。

「私は、あんたを殺しに来たんじゃない」

「戯言を。ならば何故、この時――機を見計らったようにして現れる?!」

現状を把握する為に必要だったからだという答えは、信じられる事無く消えて行く。将臣の寄越した刺客ではないと言っても、命を奪うつもりは無いと言っても、清盛はそれを信じようとはしないまま――。夜明け前の黎明とした空と海に、噛み合う事の無い数々の言葉が溶けて行った。

「いい加減にしてよ!!」

どれくらい経った頃だったろう?言い争いを始めてから初めて声を荒げたお嬢は、泣いてるみたいに見えた。声は震えていなかったし、涙も流れていなかったけれど……心の底から絞り出したようなその声は、とても切実な泣き声に聞こえたんだ。

「将臣は重盛じゃない!あんたの重盛は、もう居ないんだから!!」

「何を……重盛は、――重盛が居らぬなど……将臣は、」

さっきまでとは打って変わって声を窄めて行く清盛からは、お嬢に向けていた殺気が消えて行った。小さな声で呟くその様は、まるで幼子が救いを求めるようで……どこか憐れみを誘う。死して蘇り、その代償に壊れた精神を抱えた”人”という生き物。それを憐れと思うなんて、有り得ないのに。

「もう解ったでしょう?あんた達を死なせたくないっていう、将臣の気持ち」

「将臣の…………気持ち、か」

何十年か前。お嬢と出会ってから、俺達は変わったのかもしれない。それが、神である俺達にとって良い事なのか……それとも悪い事なのかは知れないけれど。少なくとも、天姫たるお嬢の意に従う守人という神達には――きっと必要な事だったんだろう。

「解った。じゃあ、もう行くよ。何か伝えておく事、ある?」

というたか――いずれ報せを送ろう。我の最後の息子に宛ててな」

だってほら。消してしまえば済む筈だった怨霊は、笑ってる。君を殺そうとしていた力を手放して、とても穏やかな心で。空と海の間から覗く陽光が波間を照らすように、この先に在る未来を見据えて。


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凪いだ海を渡るのに苦労していた船を陸から離れた沖合いまで送り、壇ノ浦に戻った時。戦の決着は、着いたも同然という状態になってた。海戦に慣れている筈の平家は圧倒的な戦力差に押されて、散り散りになった兵達が、そこかしこに追い込まれて斬られて行く。源氏側の士気が高いのも、不利になった原因の一つなんだろう。壇ノ浦に戻る時に霧鎖から聞かされた情報は間違い無いみたいで、源氏の神子と呼ばれる望美ちゃんを有した九郎達を中心に意気盛んな兵達が大勢居るだけじゃなく、頼朝や茶吉尼天――あ、違うか。北の方である北条政子を連れてまで参戦した総大将の存在に煽られた兵達が、普段以上に力を出してるんだ。

「あれは……っ!」

戦いの激しい一角に近付こうとしていた私が目にしたのは、知盛だった。周囲の船よりも一回り大きなそれは、まだ辛うじて人を確認出来る程度の距離にあって。

「どうして……何であんな所に居るの?!」

船首に近い船縁に刀も構えないまま突っ立てるその姿は、まるで――。駄目だ。頭の中で警鐘が鳴り響いたと同時に、走り出してた。守人達みたいに海を渡れない私は船から船へと足場を移動するしかなくて、一直線に近付きたいのに、それが儘ならない。正面に捉えた兵だけを斬り捨てながら近付いて、もう少し――あと少しで辿り着ける。そう思った時だった。

「嬢、間に合わねえ!命じろ!!」

「っ、知盛!私は今、死ぬなと命じる!!」

海に投げ出された身体の、首だけが動いた。ほんの一瞬だけこっちを向いた顔は、いつもみたいに挑発的で、皮肉めいた笑みを浮かべて――。

「霧鎖!助けて!!」

「判った」

知盛の消えた波間に潜る霧鎖を見送って顔を上げると、さっきの船には望美ちゃんと九郎の姿が見えた。やっぱりという思いと、どうして?という思いが湧き上がる。それでも、微かに捉えた言葉が私を急かす。還内府に急襲されているという頼朝と、茶吉尼天。それに――多分、景時が居るだろう場所に。



     

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三章終了まで後ちょっとー……の、筈。





橘朋美







FileNo.030 2011/9/23