すれ違う女房達の視線。御簾向こうの囀りとて、いつもの事。それは、無理も無い事なのでしょう。先の戦で亡くなったとばかり思われていた彼女は、見目麗しい公達としか見えぬ姿をしておられるのだから。
「殿、良くぞ御無事で」
「呼び捨ててくれる?落ち着かないから」
「ふふっ……そうですね。兄上もそう呼んでおられた」
「知盛も、私が死んだと?」
「いいえ。兄上は、気が向けば戻ってくる――と」
戦場より戻らぬ者は、死したものと心得よ。幼子の頃より教わったそれを、最後まで否定し続けていた兄上。過ぎた日々の長さに受け入れた私は、こうして隣に座る今でも、その存在を確かめたくなる。
「知盛らしい物言いだね。君はもう、私の事が恐くないの?」
「あの頃とは違いますから。恐いなど、今は微塵も思いません」
「そう、なら良かった。それじゃ、今の私の状態を教えてくれる?」
「あなたの状態……ですか?」
「そうだよ。私の存在が平家と源氏でどう扱われているのか」
「石橋山での戦から戻られなかった事で、死んだものとされています。中には寝返ったのだと言う者も……。遺体が見付かりませんでしたから」
交わす言葉はただ淡々と状況を把握する為のものばかり。とはいえ、私はこの状況に満足していた。かつては言葉を交わすどころか、その前に出る事すら叶わなかった人と共に居られるのですから。今はまだ、それ以上を願うのは尚早というもの。
++++++++++++++++++++
死んだと思われている事は当然だったし、裏切ったと思われている事も予測してた。でも、重衡の言わなかった事が気になる。間者が送られていてもおかしくないような状況なんだから、鎌倉の動向を知らない訳じゃないだろうに。
「そう……じゃあ、そのまま死なせておいて」
私達は迂闊に鎌倉へは入れない。だったら、そのまま死んでいるって事にしておいた方が安全だと思う。追っ手には気付かれてなかったと思うけど、もし生きている事が知られたら……あの女が何も気付かずにいるとも思えないし、これ以上ややこしい状況になるのは御免だ。となると――知盛とも話しをする必要がありそうだなぁ。
「死なせておく、とは……。どちらかへ参られるのですか?」
どこか、人目に付かない庵にでも戻った方が安全だとは思う。でも、今は六波羅に居なければならない。まだ遣るべき事がある。牡丹唐草の熱は、まだ引かないままだから。多分、今夜――雨の後、八人目と会える筈。
「そうじゃないよ。当分の間、ここに居させてもらって良いかな?」
としてではなく、別人として。そう言いながら桜の木に凭れ掛かって空を見上げれば、陽の射す隙間が無いくらい厚い雲に覆われていた。薄暗い、嵐の前の静けさに包まれて。そして今、花弁と共に……雨が落ち始める。
「この桜も今日限り……ですね。中へ参りましょう」
++++++++++++++++++++
「素性を隠すのでしたら、別の名が必要ですね」
自室に戻る折、知盛兄上に会わせたい客人が居ると言伝を残した。けれど、死んでいる者の名を告げる事は出来なかった。噂というものは、波紋の如く拡がってしまう。再び鎌倉の手の者が入り込むような事態は、何としても避けなければ。重盛兄上の亡くなられた今、そのような混乱を招けば――間違い無く、鎌倉方にそこを衝かれてしまうでしょうから。
「とは言っても……ああ、そうだ。氷炎で良いよ」
氷炎という名を口にした時、少しばかりの笑みを零したのは何故なのか。問うてみれば、昔の字名と返しながら目を細める。それは誰を思ってのものなのか。それを知りたいようでいて、知りたくない。そう思うのは何故なのか。
「判りました。では、人前では氷炎殿と呼ぶ事に致しましょう。兄上がお戻りになるまでの間、あなたのお話を聞かせて頂けますか?」
石橋山で負傷した事。その後の回復までに季節が移り変わってしまった事。鎌倉方の者に追われていた事。身体の調子が戻るまでに多大な時を要した事。聞けば聞くほど、この方が無事だった事に感謝したくなる。
「だからてっきり、間者が居るものと思ってたんだけどね」
その表情は以前と変わらぬ黎明の如き美しさだというのに、その眼差しは、冷たく鋭く――刺し貫くが如き強きものに変わる。まるで全てを見透かされるような、瞳の拷問。視線を逸らす事も出来ず、表情を取り繕う事も出来ない。それは、口を開く必要も無いほどに真実を伝えてしまう。この方に対して、私が隠し通す事など出来る筈もない。
「御心配は尤もでしょう。ですが、どうか……」
「駄目だよ。昔と同じ顔じゃ、説得力が無い」
それでも私は、それを知らせたくなどなかった。鎌倉方の間者があなたを探し、亡き者にしようとしているなど。ですがあなたは……。隠し通せず曝け出された事象に驚きもせず、満足気に笑を零しておられた。鎌倉の間者如き、気にする事は無いとばかりに。
++++++++++++++++++++
鎌倉方の動向を何とか聞き出した頃には、夕暮れ時になっていた。その後重衡とは他愛ない話を続けていたけれど、夜には戻るだろうと言われていた知盛は、夜更けになっても姿を見せないまま。雨は小降りになったけど、止む気配もなく降り続いている。腕の牡丹唐草からは何も感じられないままで――。もしかして、今夜じゃないんだろうか?
「どうかなさったのですか?」
「ん?ああ。雨、上がらないね」
雨が上がるのを待つしかない。そう判っていても気が逸るのは、あまり長居をしたくないから。風牙と雷矢が付いているとはいえ、将臣はこの世界の渡り方に慣れていない。私が三十年近くも過ごしてきた日々は、この世界が生易しい世界じゃない事を思い知るには充分過ぎた。体調が万全になったと言っても、所詮将臣は現代人。しかも、普通の高校生なんだから。刃物を持った人間に遭ったりしたら……正直言って、気が気じゃない。
「雨脚は弱まっておりますから。その内に上がるでしょう」
「そうだね」
きっと二人が上手くやってくれる。そう思っていても不安なのは、あまり深く関わる事を望まないからだ。人ではないモノが人と深く関われば、それが不幸を呼ぶ事に繋がる。私も守人達も、長い間リズヴァーンと暮らした事で、それを知っていた。
++++++++++++++++++++
聞こえてくる音が変わったのは、真夜を過ぎた頃だった。昼中からの雨が、漸く止んだのだろう。月も星も無い夜空は厚い雲に覆われ、朝が来る事を拒んでいるようにも思えてしまう。やがて必ず、陽は昇るというのに――私には、それが無い。死して蘇り、手に入れたという永遠の命など……。闇の中に、独り取り残されてしまったようなものだというのに。
「私は……何故、蘇ってしまったのだろう」
考えたところで、答えなど見付かりはしない。闇に覆われた思考は、こうしていつとなく襲い来る。私は……欲望とも呼べる、その渇きを静める為に笛を吹いてきた。だが……。近頃それが、難しくなってきている。心落ち着く穏やかな時間だった筈が……そうでは無くなってしまった。それでも――笛を吹く事すら出来なくなってしまったのなら、私は。私は、忌むべき者なのだから。せめて皆の手を、兄上のお心を煩わせぬよう過ごさなければ…ならないのだ。
「私は何故……生きたいと願ってしまったのだろう」
このような事を口にすれば、兄上が悲しまれる。亡くなられた父上も。そう解っていても、考えずには……口にせずにはいられない。死者が現世に留まり続けるなど、あってはならないというのに。生きて――いたかった。そう思いながら、死の床に就いた。死にたくなかった。それこそが、過ちだったのだ。蘇った私は……既に人ではなく、生きているなどとは言えぬ者に成り下がっていた。
「――っく、ぐぁあっ?!……ウ、ガァアアアアッ!」
雨粒に穿たれる石のように。気付かぬ程ゆっくりと訪れていた感覚に、身体の隅々までもが蝕まれてゆくのが判った。己の身体。己の精神。全てが……崩壊してしまうのではないのか。そんな恐怖を感じていられたのも、数瞬の間でしかなかった。膨れ上がる身体から溢れる欲望。伸びた爪に引き裂かれる精神。慟哭は……獣の雄叫びよりもおぞましい、呻り声でしかなかった。
++++++++++++++++++++
何かが違う気がしていた。目覚めた時、直ぐに感じた身体の重み。太く、硬く、冷たい鎖が、首と腕の枷に渡されているのが見てとれる。それを不思議に思い、ふと顔を上げると……。辛そうに眉を顰めた兄上の他に……無表情なまま、私を見詰める人が居た。見覚えの無い公達とはいえ、ここに居るという事は兄上が同席を許されたのだろう。
「敦盛、気分はどうだい?」
「兄上……今は、どうにか――落ち着けたようです」
自分の身に何が起こったのか判らず、ただ肯く。兄上とその人をよく見れば、裾の裂けた衣と……所々にある傷が目に入る。その後ろには――太い格子。何が……いや。何をしたのだ?私が――した事、なのか?一体何を……。
「兄、上……私は、何を……」
「良いのだよ、敦盛。まだ休んでいなさい」
「ですが兄上、その……そちらの方も……それは、私がやった事なのでは?」
「そう。君の仕業だよ」
「殿っ?!何も今……」
「ここで誤魔化して、後で動揺させる方が良いと思う?」
名前からすれば、女性なのだろう。その女人が眉一つ動かす事無く告げた言葉に悪寒を覚えたのは、心の片隅で恐れていた事が現実になったのだと――気付いてしまったから。
「私は……兄上達を、手に掛けようとしたのか?」
「そう。だから封印を施した」
「封印とは、この鎖の事なのだろうか?」
「その鎖と石が、君の意識を保つ助けをする。それがいつまで保つかは判らないけど、少なくとも……役に立つ」
「私の……意識」
それを失った私は……怨霊に成り果てていたのか?生者を妬み、牙を向ける……。醜く浅ましい死者の妄執を持ち、身も心も怨霊となり――人を傷付けたのか?
「兄上、私は……何をしたのです?」
「……敦盛」
「兄上、教えて下さい。私が……何をしたのか」
「だが……」
「君は怨霊の姿で私達に襲い掛かった。君自身の意識を失ってね。だから、それを封じてここへ移した」
「そうか――やはりそれは……私がやったのだな」
朧に浮かぶ、おぞましい感情。そこにある生者を求めるのは……その命を奪い、奈落へと落としたいが為。私は既に、怨霊なのだ。生者を羨み、死した己を嘆く――忌むべき存在。
「兄上……私が、黄泉路を辿る事は出来ないのでしょうか」
「敦盛?!何を言っているのか……解っているのかい?」
「解っております。ですが、それが最良の策だと思うのです」
「それは無理だよ」
そう断じた声は、抑揚が無く冷たいものだった。だが……。その女性は、どこか悲しげに私を見ていた。
++++++++++++++++++++
の封印は、人としての意識を保つ為の物であり、呪縛でもあった。あれから一月半が過ぎた今も、意識が揺らぐ事さえ無かった。あの後――。
『私と経正を殺せば、君も消える事が出来るよ』
それが、私の望みを叶える為の唯一の手段だと告げられた。――出来る筈がない。そのような事が、私に出来る筈など……。怨霊となってしまった私を、傷付きながらも見放さずにいてくれるお二人を殺めるなど。
「敦盛、居る?」
「ああ、か。何か……あったのだろうか?」
「偶には外に出なさい。体調は良い筈でしょう?」
「ああ……だが、私は……」
「良いから!」
強引に手首を掴まれ、拒む事も出来ずに表へ出る。もう随分暑くなっているのだろう。初夏の薫りが漂っていた。この身体では季節の移り変わりを感じる事も無く、ただ日々が過ぎ行くのを待つばかり。薄暗い、格子に遮られた牢獄から表に出ようなどとは思わなかった。いや。思ってはいけないのだと、自分に言い聞かせていた。いつか……消え行く日まではと。
「あの……、一体どこへ?」
「別に?目的地は無いよ」
手を取られて邸を出た後。何をするとも無く、ただゆっくりと歩を進める。厳しい目付きは常にも益して険を帯び、気を損ねてしまったのだろうかと不安になったが……。声はいつものものだった。外へ出るようにと勧められたのは、今日に限った事ではない。天気の良い日には兄上と共に訪れ、庭に出るだけでもと誘われる事も多い。
「空――見てみなよ、偶にはさ」
「えっ……?」
何を言い出すのだろうかと、不思議に思った。空ならば、いつも見ている。そう思っていた。日がな一日格子の向こう側を見上げ、時折思い立ち笛を奏でる。それが私の過ごす日々になっていたのだから。昼の澄み渡る蒼。夕刻の暮れ泥む朱。夜の深く広がる藍。早朝の清々しき暁。刻々と移り変わるその色は、どれも美しく……儚いものだった。
「直に見るんだよ。空の下で、空に包まれるようにして」
「空に包まれる、とは?」
「陽を浴びて、風を受けて。自分丸ごとで空を感じるって事……かな?」
「外に出て……という事だろうか?」
「ま、簡単に言えばね。一人で居るのが不安なら、私が付き合うから」
「いや……。それではに悪いだろう。それに私は――元より外に出る事を、それほど好みはしないのだ」
嘘だ。私はただ、恐ろしかった。いつまた、あの夜のようになってしまうか判らない。そのような危険を、犯してはならないのだと……己に言い聞かせてきたのだから。だが、は更に話を続ける――私が思いもよらなかった事を。
「人目が気になるのなら夜でも良い。君にはまだ、遣るべき事があるんだから」
「私に?私に遣るべき事など、……ある筈が無い」
本来ならば、疾うに現世から消えてしまっている筈のこの身。遣るべき事など、ある筈が無い。あるとするのなら、如何にこの身を屠るか。それ以外には何も無いというのに……それも出来ない。それでも、この現世に在る事を……嬉しいと感じてしまう。このままここで――。生きていたいと……願ってしまう
「まだ見付けられないだけだよ。時期が来ていないだけ」
「時期か。時が来た時、私は……私でいられるのだろうか」
「多分。確実に、とは言えない」
「そうか……そうだろうな。時か……。ありがとう、」
何故礼を言いたくなったのかは、よく判らない。只その言葉が嬉しかった。私がここに居る意味が、何処かにあるのではないか。そう思わせてくれた人に、感謝している事を伝えたくて……。驚くほど自然に言の葉が零れた。返されたのは、空にも劣らぬ笑み。清かに映る澄み渡った蒼に溶け込むようなその髪が風を受け、靡いていた。

**************************************************************
真夜=深夜2時過ぎ頃。やっぱり、夜の呼び方は難しい。
うーん…どうしましょう?今回、暗すぎかも。(あなたが作った話なのでしょう?)
ま、しゃーない。二章に入るまでは、暗〜い感じで…ってか、シリアスに行こうと思ってたのに所々でボロが出てしまうんだよね。(ふふ…慣れない事をするからですよ)
うわ〜、もう次6節目だよ!7節目で収まるのかなぁ…?(さあ?どうでしょうか)
今回の一言:SNSで遊び過ぎだ…好調期終了。
相方は重衡でした!じゃ、また。(では、私も…。また、お越し下さいますね?)
橘朋美
FileNo.012 2006/10/14 ※2010/9/27修正加筆 |