バレンタインから一週間。日曜日だというのに、私は学校へ来ていた。制服は着ているけれど鞄は持たず、代わりに薄型のアルミアタッシュケースを手にして。
今日は部活の全体練習日だと聞いていた通り、グラウンドでは各運動部がそれぞれの練習をしているらしい。掛け声に混ざって聞こえて来る高音は、吹奏楽部の部員が吹いている金管楽器だろう。
この寒いのに、どうして扉を閉めようとしないんだろう?
それに気付いたのは、渡り廊下を横切ろうとした時。開け放たれた扉の向こうを、誰かが横切って行った。知らない振りをして通り過ぎるのも何だしと扉の方へ足を進めたら、何となく理由が判った。
何種類もの見慣れない制服を着た少し幼さの残る生徒達が、みんな似たような表情で校舎を行き来してる。あの子達にとって、ここは声を出すのも憚られるくらいの空間なんだろう。話している様子は窺えても、会話はこちらまで聞こえて来ない。
「あ〜腹減ったー」
少し離れた位置から緊張感の無い声が聞こえたのは、扉に手をかける直前。あの態度が捨て鉢なのか余裕なのか見当も付かないけれど、ギリギリだとしても実力のある子ならきっと合格するんだろうなぁ。なんて思って、微笑ましい光景を見たよう気分になる。
「なあニーナ、これお前のじゃない?」
「えっ?ああ、うん。あんがと」
扉が閉まる直前に聞こえたのは、変わった言い回しのお礼。どこかで聞いたあるような気がしたけれど、その事よりもニーナという呼び名が耳に残った。口遊むのは、同音の名を持つ歌手の歌。彼は彼女じゃないけれど、シモンという名前だったらちょっと楽しいかもしれない。そんな事を考えながら、目的地へと急いだ。
◇◆◇◆◇
「あ、さーん!」
プレハブの横でジャージ姿のが手を振って、それに応えながら声をかける。ウォータージャグを抱いているという事は、部員達は普通に練習しているんだろう。
「お待たせ。用意して来たわ」
「ごめんね、日曜なのに無理言っちゃって」
無理と言うほどの事ではないのだけれど、今日学校へ来たのはに頼まれたからだ。何日か前。柔道部のチラシを作ってくれないかと言われた時は驚いたけど、要は勧誘用のプリント作成を手伝って欲しいという事だった。
「気にしないで。それじゃあ、行きましょうか」
「うん。あ、ちょっと待ってて。これ置いて来なきゃ!」
慌ててプレハブに駆け込んだが戻った数分後。柔道部の顧問、つまり大迫先生が待っている職員室へ。細かな指示を仰ぎながら向かったのは、体育科準備室。普通教室の殆どが入試に使われいる今日は特別だと言われ、一つの机を借りてパソコンを取り出す。
「ねえさん、やっぱりノートパソコンって便利?」
「どうかしら。私の場合、家の中で移動する為に使ってるから」
はデスクトップを使っているらしい。ノートを使っている友達で頼めそうな人を考えた結果、私に白羽の矢が立ったというワケだ。簡単な下書きを写しただけのファイルを開いて先生に確認してもらえば、内容はこれでOKだと大きく頷かれた。
「だけどな、これじゃちょっと寂しいかもしれないぞ?」
確かに。シンプルと言えば聞こえは良いけれど、何色かの大きさの違う文字が並んでいるだけのそれは素っ気無い印象を受ける。イラストでもあれば、とは思う。だけどは既にミヨに頼み、ジャンル違いだという理由で断られたと聞いている。他に絵を描ける知り合いなんて居ないし…。と声を落とした彼女と同じく、私にもそんな知り合いは居ない。
「、インターネットは使えるか?」
ええ。と答えてブラウザを開くと、ちょっと貸してみろと腕が伸びて何か単語を入力している。ズラリと並ぶ検索結果から行き着いた先は、色々なイラストを借りられるというサイト。学校でも使われているというだけあって、使えそうなイラストは直ぐに見付かった。
「じゃあ、この部分に柔道部≠チて入れてみるとか」
「おお、良いじゃないか!」
両側からの声に応えながら進めた作業は二時間弱で終わり、データファイルを写したCD-Rを手渡すと、ありがとう!とが微笑む。後はプリントアウトして印刷機で焼き増しするだけだ。そっちは任せておけ!と言う先生に見送られてプレハブまで戻ると、丁度休憩を取っていたらしい嵐が出迎えてくれた。
「戻ったか、古浪。お疲れさん。時間取らせたな、」
「嵐くんもお疲れ様。ほんと助かっちゃった!」
「特に予定があったわけじゃないもの、気にしないで」
少し雑談してから練習に戻ると言った二人に別れを告げて、背中を見送った。家へ向かう途中、少し羨ましく思う。あの二人みたいに何か一つの事に一生懸命になれたら良いのに、って。自分の進む道を見付けられないまま、高校生活の一年目は確実に終わりへと近付いていた。
◇◆◇◆◇
毎年、はば学の卒業式は三月一日に行われる。休日である場合は翌日に繰り越されて。自分が卒業するワケでもなければ、交流のあった卒業生が居るワケでもない。そんな在校生にとっては退屈極まりない学校行事に然して興味が湧く筈もなく、私も欠伸を噛み殺す時間から解放されるのを待っていた。そして体育館を出た直後、あの失礼な三年生の声が。
「そーんな泣かないでよ。ホラ、笑って……」
辺りに不快な大声が響き渡ったのは、視界の片隅に入ったバレンタインの時と似た光景を通り過ぎようとした瞬間だった。
「あ、ちょっと待って!!」
まだ大勢の人達が話をしている中、丁度良かったと言いながら駆け寄って来るその卒業生。そのまま足を止めずに歩いていれば真横に並ばれて、勝手にベラベラ喋り出す。正直に言ってしまえば、その人は五月蝿くて鬱陶しい存在でしかなかった。
「だからさ、携帯番号教えてよ。それならこれからも会えるじゃん?」
碌に話した事も無い上に、出来る事なら関わりたくない。そんな相手に携帯ナンバーを教える馬鹿が、この世界のどこに居るというんだろう。足を止め、不愉快だという感情を隠さずその男に視線を移した。
「じゃあ赤外線で送るから、」
「断るわ。あなたに教える義理は無いもの」
「え?や、ちょ、ちゃん!」
教室に戻ろうと一歩進んだところでそう言われ、右肩を掴んだ腕を払って思い切り左手を振った。膨らませた紙袋でも割ったような短い音が響き、頬に手を当てた相手の顔がみるみる不機嫌になって行くのが判る。けれど、不機嫌さならこちらの方が完全に上だ。
「馴れ馴れしい呼び方はやめろと言った筈よ」
顔を赤くして睨み付ける彼は、怒りで血が上っているのだろう。何度か意味を成さない一音を漏らす。
「ご卒業おめでとうございます、先輩。金輪際お会い出来ませんように」
慇懃尾籠な言葉と共に睨みを利かせ、歩き出す。渡り廊下から校舎に入るまで周囲の様子が耳に入って来たけれど、今更だ。それに、今回ばかりは噂が流れてくれた方が助かるかもしれない。
人の少ない校舎内は静かで、教室に戻るまでも殆ど人と擦れ違わなかった。今日は卒業式が終われば各自解散だとHRで言われていたし、卒業生に知り合いが居る生徒達はまだ彼らと話し込んでいるのだろう。
閑散とした教室を背にして、恐らく賑わっているだろう正門へは向かわず裏門から家路を辿る。春とはいえまだ温かな風は吹かず、かといって肌を刺すようなものではない。そんな中途半端な季節が自分の状態と被って思わず零した溜息は、少しだけ白く見えた直後に消えていた。
◇◆◇◆◇
「あー、〜!教室に居ないと思ったらこんな所に〜!」
「日直?」
社会科準備室から地図を抱えて教室へ向かう途中に会ったのは、カレンとミヨの二人だった。の姿が見えない事を珍しいわねと尋ねると、いつも三人一緒に居るわけじゃないという尤もな答え。
「でも今日は特別」
「そうそう。バンビはお返しされる側だから、涙を呑んで!」
それを聞いて、何となく理解した。今日は朝から大勢の人達がソワソワしていたし、休み時間に他のクラスの男子から呼び出されている女子もいたから。バレンタインと同じく前倒しという事なんだろう。
お返しだという包みを二人から受け取って、片手で地図を抱え直す。まだ半分以上残っているというお返し行脚を再開した二人にまたねと声をかけて、私も再び教室へと向かい足を進めた。少しバランスが悪いけれど、教室までの距離なら心配する事も無さそうだ。その考えが覆されたのは、階段を上り切るまで後少しという所での事。
段に引っ掛かったら危ないと思い、地図を斜めに抱え直していたのが災いの元。廊下から走って来た男子がそれにぶつかった反動を諸に受け、身体が前のめりに倒れて行く。
咄嗟に地図を廊下へ投げ落としたのだけれど、もう片方の手にはさっき貰ったばかりのプレゼント。悩む暇も無く次の瞬間には激痛が走って、倒れ込む寸前に自由になった片手だけでは廊下にキスするのを防ぐ事しか出来なかった。
「っ!!……つ、ぅ」
「うわ?!あっぶねーなあ。ちゃんと持って歩けよな、」
「おい。テメェ、人にぶつかっといてその言い様はねえだろうが。ぁあ?」
頭の上でされている遣り取りで、一つはコウの声だと気付いた。誰だか判らないもう一つの声の主は、慌てて謝った後で階段を駆け下りて行く。バタバタと遠ざかる足音と入れ替わるようにして横から近付いて来た影。
「」
痛みが広がるのは、段差で打った両膝の下辺り。それを堪える為に歯を食い縛っていた私は、しゃがんで顔を覗き込もうとしているコウに返事をするどころか顔を上げる事も出来ずにいた。
「お前、立てねえのか?」
そう聞かれて何とか笑って立ち上がろうとしたんだけれど、それは敢え無く失敗に終わる。廊下に片膝を立てたところまでは我慢出来たのに、それを伸ばしかけた途端。突然痛みが増して、ガクリと膝が折れたのだ。
「だい、つっ…?!」
「――!バカ、無理すんな。……、」
そのまま倒れれば膝を打っていただろう事態は、僅かなコウの動きで避けられた。だけど――。コウの右腕だけで私の身体が受け止められているというバランスの悪い体勢で何秒か、それとも十秒以上だったのか。沈黙が続いていた間、私は転びそうになった時よりも焦っていた。
「っ、悪ぃ。…………手ぇ離すから立て」
こんな事になったのは偶然でしかない。だけど右の脇から伸ばされた腕が真っ直ぐ身体を横切るのは当然で、肩から伸びている腕の先に手や指があるのだって生き物なら至極当然の事だ。人間の身体の構造上こうなるのは必然なんだから、仕方ない。だから、でも。焦り過ぎて頭の中が混乱してる。そんな状態だった。なのにその上――。
「――おい、。聞いてんのか?」
「……コウ、…………」
「何だ。もうちっとデカい声で言え」
耳のすぐ傍で聞こえる、抑えられた低い声が混乱に拍車をかける。押し潰されているのは胸なのに、直接心臓を圧迫されているみたいだ。顔が熱くなってるのも脈が上がってるのも判る。冷静にならなきゃいけないと思っているのに、思考も感情も滅茶苦茶に入り乱れてるような感じ。
「っ……。立たせて、欲しいの」
「……お前、」
「足が……言う事、っ聞かない」
「うっ……、ああ。ちょっと待ってろ」
予鈴が聞こえて、授業が始まる前にと声を絞り出す。一旦立ち上がったコウの手に両側から掴まれた腰は、呆気ないくらい簡単に持ち上げられた。その一瞬、感じたのは浮遊感。見えたのは真正面にあった目で、聞こえたのは何だったのか――。そもそも、本当に聞こえたのかすら判らないでた。
効果音として使われる鼓動の一音のような、燃料に火を入れた瞬間にだけ聞こえる一音のような。
「ありがと……」
「おぅ、下ろすぞ。お前、歩けんのか?」
「――地図、頼んでも良い?私のクラスまで」
立ち上がらせてもらった直後から互いに目を逸らしたまま、いつもより小さな声で話していた。中途半端に冷静な頭で考えられたのは、とにかく今はコウと離れた方が良いだろうという事だけだ。
「あ?あぁ、別に構わねぇけどよ。そこに落ちてるヤツはどうすんだ?」
「えっ?あ、」
「お前が持ってたヤツだろ。机ん中にでも入れときゃ良いか?」
「うん、お願い」
「判った。お前――、落ち着いたら教室戻れよ」
階段の手摺りに掴まって立っていた私は、コウが行ってしまうのを待ってから顔を伏せた。まるで漸くまともに息が出来るようになったとでもいうようにして、大きく息を吐く。休み時間特有の音を断ち切るようにチャイムが鳴り始めた数分後、痛む足を引き摺るようにして保健室へ。
辿り着いた時には赤黒く腫れ上がっていたそれを見た保健室の先生は、大きな湿布をそのまま私の両足に貼り付けた。ここで休んでいなさいと言って部屋を出て行ったのは、たぶん教室か職員室に知らせに行ったからだろう。
誰も居ない静かな空間で思考を巡らせる。顔はもう熱くないし、脈拍も正常だと思う。多少の混乱は残っているけれど、焦りや妙な圧迫感も感じない。コウと離れた後から、少しずつ回復したんだ。でも――。
「……どうして、」
判らない。親しい人に触れられる事には慣れている。頭を撫でられたり、手を繋いだり、飛び付いてみたりなんてしょっちゅうだった。抱き締めたり、抱き締められたり、頬にキスしたり、額にキスされたりだって。幼い頃からずっとそうして過ごして来たんだから、当たり前だ。
それはコウに対してだって同じだった。日本じゃそういう事をする人は滅多に居ないのだから、とか。小さな子供じゃないのだから、とか。耳にタコが出来るくらい何度も怒られて、せめて人前ではやるなって妥協案を出されたのはいつだっただろう?
「――ああ。そっか」
子供の頃から私の身長は高かったけれど、胸は小さかった。それが中三になってから急に成長して、その夏のミーティングの時だ。いつもみたいに赤い顔して怒ったコウがしどろもどろで、ルカに指摘された後だった筈。それ以来、私はルカにもコウにも抱き付かないように注意し始めた。
はさ、女の子なんだ。だから気を付けなくちゃダメだ
危ない目に遭ってからじゃ遅ぇんだよ。ちったぁ気ぃ付けろ
まだ少し幼さの残っていた二人に言われた事が、脳裏に甦る。あの時どうしてあんなに焦っていたのか、どうしてあんな風に混乱したのか。どちらの答えにも辿り着けなかった思考は、暖房の効いた保健室の温まった布団の中で急速に速度を落として途切れた。

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よし、次で一年生は終わり!って、まだ一年生のAnotherSide書いてへんのがー!!うはー、頑張らねば。
橘朋美
FileNo.115 2012/9/24 |