幼い頃。私にはまだ何の力も無く、ただ親の庇護を受けて生きていた。藤原の郎党として秀衡様に仕えていた父上と、その纏め役の娘である母上との間に、私は生を受けた。日々の暮らしは楽なものではなかったけれど、親子で暮らしていくには足りるだけのものに恵まれて。
男でなくとも、武を磨き学を修める事はお前の為になる。父上はいつもそう言って、私に様々な事を教えた。
あなたもいずれ、どなたかの元へと嫁ぐのですから。母上はそう言って、女性としての礼儀作法や嗜みを躾けた。
剣を修めた父上が、己が血と技を継ぐ男児を待ち望みながら。それが叶うようにと、母上は大きなお腹をさすりながら。姉として多くの事を教えてあげるのだと、私は誓いながら。平穏な日々を過ごし、幸せな将来を夢見ていたのに。その日が来る事は、なくなってしまった。年が明け、私は六つになったばかりの事だった。
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「失礼致します。泰衡様、お呼びだと伺いましたが……」
武に長け、学術にも優れる孫の将来が忍びない。長年わしに仕えていた者が、今際の際に嘆いておった。その老いた郎党の願いを聞き、父上はその孫を引き取った。男だと思われていた郎党の子は俺の側近として育てられる事になり、それが女だと知れた後も待遇は変わらぬまま――今に至る。
「ああ。九郎が鎌倉に追われる身となった事は、お前も知っているだろう」
礼を取り、控えたまま返事を寄越す。同じ年頃の女ならば、疾うに子を成しているだろう。事実――六、七年ほど前、にも多くの縁談が湧いていた。父上は嬉々として仕度を整えようとしていたが……。はそれを拒み、郎党して生きる事を望んだのだ。
「はい。鎌倉の軍奉行が追捕の指揮を執り、人一人通さぬ構えだと」
「ではそれを破り、御曹司一行を平泉まで連れて来い。だが表向きは銀に任せ、お前は決して人前に姿を現すな。平泉に辿り着くまで一行と銀の動きを観察し、俺に報告しろ」
必要な事を告げれば、もう用は無い。が俺の命を拒む事は無く、無駄な口を利く事も無い。それは、俺達二人の関係を表す不文律とも言えるだろう。
「――御意。では早速……御前、失礼致します」
僅かな衣擦れを残して去る姿を見送るのは、もう何度目になるか。あれが今、他の女のように生きたいと願ったとしたら。俺は、それを許せるのだろうか?そう思うのも、また――。今はこんな事を考えている時ではない。そう己を律してみても消す事の出来ぬ思いが、確かにある。
「全ては捨てた筈のものだというのに――」
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名も顔も知らぬ者に不信感を露わにした九郎殿の一行は、それでも無事平泉へと到着した。銀を含めた全ての動向に不審な点は無かったと泰衡様に報告した後も、私は引き続き彼等を監視せよとの命を受け、日々を過ごす事となる。
熊野の現頭領が高館に現れた時には、随分と成長されたと驚いたものだ。彼等はこちらへ到着してからというもの、平泉を回り怪異を祓っている。その的が大社に定められた時の泰衡様は、些か苛立っておられるようだった。その後は然して変わり無い日々が続いていたのだけれど……。
「銀、お前は白龍の神子を捕らえよ」
そして私には、高館を監視せよとの命が下った。白龍の神子が持つ逆鱗とやらの力を欲した泰衡様は九郎殿の一行を脅し、鎌倉との戦に備えて大社の完成を急がせる。御自身の命により負傷した御館に代わり、平泉と九郎殿を守る為に。数日後。銀と共に御所を脱した白龍の神子を捕らえ、誰に許されようとも思ってなどいないと零した泰衡様に告げた。私は最後まで供を致しますと。
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「泰衡様――今、何と……?」
繰り返した言葉を、は受け入れようとしなかった。平泉を守るのも、九郎を守るのも、俺の意思だ。大黒天の真言を使う為、この命を賭けるのも……。お前を守る為だなどと言うつもりは毛頭無いが、俺の守りたいものの中に、お前も存在している。それを最後まで共になど――――許せる筈も無い。
「くどい。お前は用済みだと言ってる。後は好きに生きるが良い」
その一言に口を閉ざした後。幾らかの沈黙を破り、は去った。
「今までのご恩――生涯をかけてもお返し出来ない事だけが心残りです」
鎌倉方が攻めて来たのは、その数日後だ。あの時、の役目を解いたのは正しかった。悔いる事など……最早俺には無い。頼朝に加護を与えている異国の神、茶吉尼天を倒せば。俺の守りたいと思っているもの全てが守られる。だが結果は――。
「泰衡さん。鎌倉と、和議を結んで下さい」
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大社に現れた鎌倉の戦奉行によって泰衡様が負傷した時。私は我を忘れ、その場に飛び出そうとしていた。それを思い止まったのは、鎌倉の北の御方――北条政子の皮を被った異国の神が姿を現したが為。そして、白龍の神子達が茶吉尼天と戦っている間もその場を去ろうとしなかった泰衡様は、大黒の真言を告げた。茶吉尼天は倒され、平泉は鎌倉の脅威から逃れたのだ。白龍の神子の言により、和議を結ぶという形で。
その後。
泰衡様は引き続き御館に代わって政務に追われる日々を送り、白龍の神子達が元居た世界に帰るという日が来た。九郎殿の言葉にも首を縦に振らなかった泰衡様が馬を駆って出たのは、無量光院の脇へ続く道。恐らく一人静かに彼等を見送るのだろうと思い、私もその後を追っていた。暫くして――。道に佇む泰衡様に、もしや気付かれたのでは?と、足を止める。見れば童女から花を受け取って――。
「?……、――っ!!」
その時私は、何も考えてなどいなかった。ただ、あなたを死なせるなどさせぬとだけ思っていた。御館に恩を受けた者達がその身を狙っている事など、承知していた筈。なのに泰衡様は、それを放っておけと仰っていた。それが御館に対して刃を向けた事の報い――いや、己の犯した罪に対してのけじめと心得ておられたのだとしても。
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「――?!」
それを知らずに居たわけではない。だが、存外遅くに現れたものだと思った。その刹那。響いたのは――鍔競りと、呻く声。俺に向けられた一撃を返した直後。すぐさま斬りかかった別の者が、お前の肩に赤い染みを付けた。何故ここにという疑問を口にする暇は許されず、即座に背を向けたお前の声が――また響く。
「剣を取って下さい泰衡様!!私はあなたを、死なせたくないっ!」
全てを捨てた筈だった。平泉を、友を、お前を――守る為に。これで良い。全てを終えた今――俺が無くとも、平穏は訪れる。この地にある全てのものに、それが約されたのだと思っていた。ならば俺自身の願いなど、些細なものだと。だが。
「俺も――お前を死なせるつもりなど無い!」
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季節は初夏に向かい、眩しい陽射しが降り注ぐ。花や木々、鳥に蝶、山河と大地。そして、そこに住まう人々。平穏の訪れた地にある全てに。
「なんと!それは真か?」
感激し易いその性質も昔と変わらぬ御館に相反する泰衡様が告げれば、その双眸が細められ、感涙に咽ぶまま……。用は済んだとばかりに座を辞そうと腰を上げかけた泰衡様が、ある一言に動きを止めた。
「このような事になるならば、何故あの時を娶らなんだ」
「――何の事です?」
「良いではありませんか、御館。今があるのも、そのお陰なのですから」
もう何年も前に泰衡様が仰った。私が他家に嫁すのは惜しいと。ならばそなたが娶れば良いと言う御館に返されたのは――。
『父上、にはの幸せというものがあるでしょう』
とても判り辛く、優しい言葉。
「ううむ……そうじゃな。そなたがそう言うのであれば良い」
ならば早速と方々に使者を立てようとする御館を残し、最早止められまいと観念した泰衡様に手を引かれて立ち上がる。貴方の下さった、言葉のままにあらん事を願って。
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得る事など出来ぬ。得られぬものならば、それを捨ててでも守る。そう諦めていた年嵩の女は、従順な僕であり続けた。だが、それは俺の手を離れるまでの事だ。手元にあればどれほど従順な鷹であっても、野に放たれた後は自身の意思で生きるのと同じように。お前は――お前自身の意思で、俺の元へ舞い戻った。ならば俺も――。
天に在りては願わくは比翼の鳥と作り、
地に在りては願わくは連理の枝と為らん。
この先……俺の生涯全てを、お前と共に歩むとしよう。そう告げた時のの顔を、生涯忘れる事は無いだろう。その時感じた花の綻ぶ様を見るような気持ちも。お前と共にある限り、俺の心にあり続けるのだろう。

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(壁紙:十五夜/ちゃちゃ様)
愛蔵版発売後に書き始めた泰衡短編。
タイトルの四字熟語は、首を鶴のように長く伸ばして相手を待ち望む様や切実に待望する気持ちを表したものです。
橘朋美
FileNo.003 2010/4/22 ※2010/10/10修正加筆 |