― 入学前 ―
今日、師事していた先生のレッスンを已めた。幼稚園児の頃からのレッスンを已めてしまうのは寂しいと思ったけれど、年が経つに連れて先生と私のスケジュールは合わなくなってしまった。いつかはこうなる時が来ると解っていたし……音楽科へ入学する事が決まった今が、きっとその時なんだって。
「先生、今まで本当にありがとうございました」
過分な評価だとも思える言葉をかけてもらって門を出ようとすれば、帰宅したばかりの先生の息子さんが居た。初めて会った時から素っ気無い、一つ下の男の子。顔を合わせれば挨拶はするけれど、長く話した事は殆ど無い。けど……多分、私が初めてライバル視した人。
「お帰り。今からレッスン?」
いつもの素っ気無い返事にも構わず少し話せるかなと尋ねれば、ほんの少しだけ不思議な表情をして。少しだけなら、って言ってくれた。そりゃまあ不思議だよね。これまで態々こんな風に話をしようとした事なんて無かったから。でも、一言だけ言っておきたかったんだ。
「ありがとうね」
もう随分前の事。それを君が覚えていないとしても。あの時は凄く悔しかったけれど、そのお陰で技術も向上心も上がった。もう会う機会も無いだろうけど、忘れないよ。まあ、君には迷惑な話かもしれないけど。何を今更……。そんな素っ気無い前置きに続いたのは、思いもしない言葉だった。そんな事を言えば、君はきっと――事実を言ったまでだ、って言うんだろうね。
「あの時の君は既に俺よりも巧かったし、その後の成果は君自身の努力が生んだものだ」
でも、何より驚いたのは……その後の言葉。
「それに一つ言っておくが、俺の志望校は星奏学院だ。一年もすれば、また顔を合わせる事になるだろう」
君とこんなに話したのも、君が受け答えや挨拶以外の言葉を口にしたのも、出会った時から十年以上経った今が初めての事だったから。
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― 入学後 ―
この学院には妖精が住んでいる。その話を初めて聞いてからもう十年以上も経つけれど、これまで私が実際に妖精を見たのは三回だけ。母に連れてこられた時と、王崎さんの出場したコンクールを応援に来た時。そして、入学式の朝。
「おはよう、さん。どうしたの?こんな所で立ち止まっていては、みんなの迷惑になってしまうよ」
「ん?ああ、梓馬君。おはよう。取り敢えず、三年間宜しく」
相変わらず卒が無いと言うか何と言うか……。綺麗な笑顔を浮かべて私の横へ並んだのは、小学生の頃からの知り合い。仲が良いと言えば語弊があるかもしれないけど、それなりに良い関係ではあると思う。まあ共犯者的な意味合いで、だけれど。
「まったく……本当にこの学院に入学するとはね。意外だったよ」
「意外性の無い人生なんてつまらないでしょう?」
まあ、暇潰しにはなるだろうな。と、呟くような声と小さな笑いにお手柔らかにと返す。そんな風に喋りながら校舎へ向かえば、周囲から聞こえるざわめき。それは、彼の表情しか見えていないからこそのものだろう。二つの顔を使い分けるのが彼の得技。知った時には驚いたけど、妙に納得もしたっけ。
「クラスは……ああ、違うようだな。お前、専攻は?まさか声楽じゃないんだろう?」
「そっちこそ、まさかピアノじゃないんでしょう?」
お互い、他人には触れられたくない事がある。なのに態と口にするのは、それを露呈させない為。完全に切り替えた君と、隠す事で切り替えた私とでは、どちらが辛いんだろう?そんな事を考えながら、互いに背を向けて歩き始めていた。
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― 一年後 ―
何故か正門前にある像は光を撒き散らしている事が多い。それが私にしか見えていないのだと気付いたのは、まだ入学前の事。
「あ、ちゃん!今帰り?良ければ途中まで一緒に帰ろうよ」
「こんにちは、ちゃん。今から帰るところ?良ければ送っていこうか」
そうそう、王崎さんの出場した学内コンクールを見学させてもらった時だ。ほぼ同時に声をかけてきて、知り合いだったの?とお互いに聞きあっている二人を他所に、その時の事を思い出していた。流石に中学生にもなって「あれなあに?」なんて言えなくて黙っていたけど、子供の頃に見た陽気な妖精は見えなかった。小さな光がフワフワと漂っているのは今も同じで、それは校門前の像に限った事じゃないという事に気付いたのは入学してから。
「火原君とちゃんが知り合いだったなんて、おれも今まで知らなかったな」
「おれも驚いちゃった。でも良いなあ……王崎先輩はちゃんって呼んでるんだ」
「うん。彼女が中学生の頃からの付き合いだから、ついね」
「そういえば、ちゃんって柚木の事は梓馬君って呼ぶんだよね」
一番よく見えるのは校門前にある妖精像で、次が屋上の風見鶏、次いで森の広場のオブジェ。でも、学院中どこででも見かける。特に屋外で歌を歌っている時や、練習室でピアノを弾いている時に。害がある訳でもないし、あまり意識しない方が良いんだろうと思って誰にも言わずに……いや、言えずに一年を過ごしてきた。ただでさえ良い印象を持たれていないのに、これ以上ってのは……流石にキツイから。
「どうかした?ちゃん」
「あ、えっと……嫌だったら無理しなくて良いからね!」
慌てて何の事かと返事をすれば……ええと、それはつまり?――それからだ。私が火原君を和樹君と呼ぶように、火原君が私をちゃんと呼ぶようになったのは。
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― 進級後 ―
レギュラーに抜擢されたのは去年。三年生が引退して直ぐの事だった。顧問には、異例中の異例だし無理をするなよって釘を刺されたっけ。二年生になった途端に危うい事はあったけど……ま、怪我をしなくて良かった。
「悪い、ボールこっちに蹴ってくれ――って。なんだ、お前か」
何ていうタイミングだろう。正直そう思った。転がって来たのはサッカーボールで、その後から来たのは生意気な一年坊主。まあ第一印象が悪かったんだろうけど、どこか挙動不審に見える。
「はいな――っと。今度ぶつけたら、その頭にダンク決めるからね?」
一瞬ポカンとした後で笑い出したけど……私、何か笑われるような事なんてした?部室に行く途中で制服のままサッカーボールを蹴っただけなのに。大体、名前も知らない相手に向かってその態度は酷いんじゃない?
「ははっ――っと、そういやまだ名前も言ってなかったな。俺はサッカー部一年、土浦梁太郎だ」
ダンクを決める時はお手柔らかに頼むぜ?先輩。そう言って差し出された手を握ってこっちも名乗ると、この前は悪かったな……って。結構素直で好感が持てるんじゃん――なんて風に思う私も、相当単純なのかもしれない。
「っと、こんなトコで暢気に喋ってる場合じゃなかった。部長にどやされちゃうからまたね!」
ああ、じゃあな。と手を振った君は、普通科の新入生でサッカー部の新入部員。それ以外の事は知らなかったし、知る必要も無かった。それはきっとお互い様で、そうじゃなくなる時が来るなんて思いもしなかったな。
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― 二年後 ―
えーっと……これ、誰だろう?春休みだというのに部長選出だとかで顧問に呼び出されて、帰る前に屋上で歌でも……と思って森の広場を抜けようとしていた時。見た事の無い制服を着た子を見付けた。まあ、そろそろ桜も咲き始めようかという時期だから今日みたいな天気の良い日はそれなりに温かいとは思う。うん、思うけれど……普通、こんな所で寝る人って――実際目の前に居るなぁ。うーん、起こすべきなんだろうか。フワフワした柔らかそうな癖っ毛で、寝顔からでも美少年だと断定出来るくらい可愛らしい。近寄って見てみれば、まるで宗教画にでも描かれていそうな子。この寝顔を見ていると、何だか起こすのも忍びないような気が……。暫く考えてから起こそうと決めたのは、この近辺では見かけた事の無い制服を着た彼がどうしてこんな所で寝ているのか、それを知りたいという好奇心から。
「ねえ君、こんなトコで寝てると風邪ひくよ?」
「ん……?ああ、ええと……風の音が、気持ち良くて――――」
横にしゃがみ込んで肩を揺らせば意外と簡単に反応してくれた……のは良いんだけど、また寝てる??何なんだろう、この子――変わってる。このまま放っておくのも何だか落ち着かないし……でも、まあ良いか。春休みの校内なんて殆ど人も居ないんだし、ここで歌っても。この子が起きたとしても、寝惚けていたんだろうって言えば良いし。そうだな……せっかくだし、子守歌にしようか。
Der Traum dab ich es kopiere und ist auf den Augenlidern froh Treiben und
fuhlt zum Herzen nett Es wird in tiefer Nachtwarme umgeben Es wird vom
stillen Mondlicht beleuchtet Bis ich eine helle Stimme nehme Bis ich die
uberwaltigende Morgensonne nehme Schlaf Schon mein Kind Es ist ruhig hier
曲は、フォーレ……ですよね。そう言って目覚めた君に質問攻めにされたのも、良い思い出かな。
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― そして現在 ―
滅多に人の来ない、静かな音楽準備室が俺の好みなんだがな。けたたましく扉を開ける音と名前を呼ぶ声。校長――いや、リリのヤツ……次から次へと参加者を増やしやがって。
「だから言ってるだろ?俺には何とも出来ないって」
「コンクール担当教師なのにですか?!」
コンクール担当なんてただでさえ面倒な仕事だっていうのに、普通科の、何ていったか――――氷渡に月浦だったか?おまけにまで選ばれたなんてな。まったく……勘弁してくれっての。
「ま、運が悪かったと諦めるんだな。で?お前さん、何で出場するつもりなんだ?」
「他人事だと思って簡単に言わないで下さい!私は出場するなんて言ってません!!」
「まあそう言うなって。お前さん、前回のコンクールも見学に来てただろう?ほれ、王崎の招待だとかでさ。あの時の王崎みたいに、自分も楽しめば良いじゃないか」
「私は――コンクールに出たくないんです。幾ら音楽が好きでも……」
「……それが悪い事だとは言わんが、若い内に可能性を潰すのは愚か者のする事だぞ」
俯いたまま呟く姿に何かを感じ取っても、俺にはどうしてやる事も出来ん。お前が音楽を続けていて、出場者に選ばれた以上は。今のお前に、音楽が喜びや嬉しさ以外のものを与えているんだとしても……な。
「どうしても……出なければならないんですか?」
「ああ。お前さんが、何らかの楽曲を人に聞かせる事が出来る以上はな」
判りました……じゃあ、ピアノで登録しておいて下さい。そんな消え入りそうな返事を聞いたのは、もう日暮れ近くだった。頑張れよ、若人。そう言って肩を叩いた時の僅かな笑顔だけが救いだな。
「おっと、いかんいかん。忘れるトコだった。ほれ、細かい事はこのプリントを読んでおけよ」
「はい。じゃあ、私はこれで。失礼しました」
お前も、このコンクールに出る事で何かを掴めるだろうさ。昔の俺がそうであったように……それを望もうが望むまいが、お構い無く。ま、それは他の出場者達にも言える事なんだろうが。
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「あれ?ちゃん、どうかしたの?」
「ん?別にどうもしてないよ。またね、和樹君」
初めてコンクールを聞きに来た時は、ただ純粋に音楽を好きだと思った。二度目に聞きに来た時は、やっぱり音楽を離れる事は出来ないと思った。そして、三度目のコンクールは……私に何を思い知らせるんだろう。そんな事を考えながら、キラキラと光を振り撒く妖精像を見ていた。あの人と同じ舞台を踏める。それを喜んでいる自分に気付くまで。

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(壁紙:NEO HIMEISM/雪姫さま)
あの人とはどの人なのか。
それは、これを読んでいるあなた次第。
下にあるのは本文中にある絶対に翻訳出来ないであろう子守歌の訳文です。
実際はフォーレの子守歌に歌詞は存在しませんし、この歌詞が楽曲に合わせて歌えるものかどうかも定かではありません。
適当な作者で申し訳ない。あ、一応ドイツ語ですよー。
主人公の母が生まれたばかりの主人公の為に作った子守歌の歌詞、という設定です。
写しなさい その瞼に幸せな夢を 流れなさい その心に優しき思いよ
深き夜の温もりに包まれて 静かな月の光に照らされて
眩しき朝日を浴びるまで 明るき声を受けるまで
さあ眠りなさい 可愛い我が子よ 穏やかにここで
橘朋美
FileNo.105 2009/5/26 ※2010/10/12修正加筆 |