法皇の前で白拍子として舞う。それがどんな意味を持つのか、俺は知らなかった。だが――惟盛がそれを望み、清盛に進言した事で、が座敷牢から出られたのは確かだ。
「何と!法皇様に請われておきながら、そのような事を申すなど」
それが惟盛の罠だって気付いたのは、本格的に雨の降り始めた神泉苑でだった。を寄越せと言った法皇に二つ返事をしたのは惟盛で、それを断ればどうなるかなんて判りきってるっていうのに。
「申し訳ありません。ですが、――どうぞ御許しを」
は平伏したまま、そう言った。その時立ち上がろうとした俺は、膝を立てるより先に目の前を遮られていた。余計な事をするな。ここは堪えて下さい。厳しい表情だけでそう言った、あいつ等に。
◆◇◆◇◆
手解きをしたのが兄上だとはいえ、私の舞の腕は、人前で舞ったとしても恥を掻かずに済むという程度のものだ。法皇の目に留まるなど有り得ない。そんな事態に陥る可能性があるとすら、つい先ほどまで考えもしなかったというのに。
一体どうやってこの場を逃れれば良いのか。五月蝿く喚く腰巾着の声が邪魔をして、考えが纏まらない。いつ平家追討の院宣が下されてもおかしくない今、ここで法皇の不興を買うという事が何を意味するのか。そんな事、誰に言われなくとも理解している。だからこそ法皇との関わりが深く、覚えのめでたい者達で出向くのだと。あの言葉は……、兄上の本心では無かったという事なのだろう。
ただその場に平伏し、何の力ももたない白拍子を演じ続けるしかない。頑なに首を振り続けた挙句に正体がばれてしまっては、収拾のつかない事態になってもおかしくないのだから。さも怯えているように声を震わせ、頭を上げる事すら恐れ多いと額を地面に付ける。喚き続けている側近の言うように、法皇ともあろう者なら極上の白拍子を望む事も可能なのだ。だから私は、いずれ法皇が根負けするだろうという読みに賭けていた。けれど、状況を打破したのは……。そんな天の采配ではなく、ここで聞こえる筈の無い者の声だった。
◆◇◆◇◆
それは唐突に始まり、唐突に終わりを告げた。
「これは――、一体……?」
穏やかに降り注いでいた雨が止まり、異様な空気が辺りを支配する。まるで時が止まってしまったかのように感じられるその光景は、己が手を伸ばす事で崩れ去ってしまう。宙に浮く雨粒に触れれば、それは僅かに肌を伝い、湿らせてゆくのだから。
その直後、現れたのは――何だったのか。形を成さぬ朧なそれは、確かに何者かの姿ではあったけれど……。平伏したの背後にある気配を法皇様が怨霊かと問えば、それは厳かとも思える声音で答えた。
「聞くが良い、我が名と同じ音を冠する者よ」
目の前で起きている事象を信じられずにいたのは、恐らくその場に居た全員――いえ。僅かに肩を揺らしたを除く、全ての者達だったのでしょう。数多の雨粒が宙に静止したまま熱を放ち、次々と消滅して行く中で、そこだけは冷ややかな空気を保っている。背後からを覆うように――まるで親鳥が雛を守るようにして作られた僅かな空間だけが、静謐に満たされているようでした。
娘が龍を、龍が雨を呼んだのではない。その者が戯れに煩わされぬよう、我が水を撒いたに過ぎぬ。その娘は、我の依代とも言うべき存在。その生が人ごときに支配されるなど、あってはならぬのだ。
それが怒りを露にしているのだと感じたのは、辺りの雨粒が掻き消えた時。ほんの瞬きの間とはいえ、それが気配を消す刹那。確かにそこは灼熱の焔に炙られ……後には、畏怖を抱いた人だけが取り残されていたのです。
◆◇◆◇◆
多分に厄介とも言える神の行動のお陰で、雨乞いの儀は混乱を残しつつも幕を閉じた。僅かとはいえ雨を齎した白拍子を諦めた法皇は、その身を依代だと言った存在に危機感を感じたのだろう。特に咎めを言い渡す事も無く、その場に居た全ての者に他言無用と命じたが……しかし。
「鳳凰、何故あの時姿を現した」
あの時――法皇があの言葉を信じず退かなければ、事態は最悪の結果になっていたかもしれない。それを思うと、素直に礼を言う気にはなれなかった。
「あの場に居ったは只人ばかり。この姿は見ようにも見えぬ」
「屁理屈を言うな!」
こちらが激昂するのを見ても眉一つ動かさない無表情な神が、手を差し伸べて頬に触れる。その力を受ける代償として私に憑いた神が、淡々と言う。
「あれは事実。そなたの生ある限り、我は現世に在り続ける事が出来る」
それは闇守の一族が作られた時からの定め。それを覆す事は何者にも出来ず、その力を受けた者が闇守でなくなれば……神と、それを狩る者の関係は破綻する。故に、神の憑いた者が他者の思惑に支配されて生きる事があってはならない。その生を全うするまで、私は私自身の意思で、闇守として生きなければならないのだ――と。
笑わせてくれる、と思った。生まれてこの方、私は闇守である自分を否定した事は無いし、それはこれからも変わらないだろう。寧ろ闇守ではない自分を想像する事すら出来ないというのに。それは今回の件にしても同じで、最終的にはどんな手段を使っても――と、考えていた。幻を作り出して神泉苑から姿を消すなり、形代を使った頑強な式神を身代わりに送るなり……。少なくとも、幾らかの方法はあったのだから。
「どうやら……そなたは守られる事を嫌う性質らしいな。ならば――」
僅かに思案顔をしてみせた神が、静かに問う。何故そなたは生きるのか、何の為に生きているのかと。答えなど考えるまでも無い。生きる事に理由は無く、今の私は平家を落ち延びさせる為に生きている。そう答えた私に向けられたのは、哀しげな――――いや、どこか憐れみを帯びた微笑だった。
◆◇◆◇◆
季節は巡り、兄上が怨霊として蘇ってから約一年。平家を取り巻く状況は、大きな変化を迎えようとしていた。木曾義仲追討の命に従い京を出立した軍は幾度かの戦闘を経て、今――。
「どうした、何か心配事でもあるのか?」
「ま、それなりに……ね」
倶利伽羅を目指す道中。遊ばれていただけのあの頃とは違い、慣れた様子で疾風を進める将臣が声を掛けて来た。今の状況を思えば懸念は幾らでもある。歴史を知っていれば、それは尚更だ。将臣もそれを知らないわけではないのだろうに、まるで何も気にしていないかのようで。言葉はともかく、つい厳しさを含ませた視線を向けてしまう。
「そんな怖い顔すんなって」
けれど将臣は、いつもの――昔のまま。現代に居た頃と同じ、おどけるような声音で返事をする。それはきっと、生来のものなんだろう。まだ始まっていない時だからこそあらゆる対処法をシュミレートしておこうとする私とは、似ても似付かない。だからといって、事を楽観視しているわけじゃないというのも解っている。
「まだ戦は始まっちゃいないんだ。考え込んだ所で、どうしようもねえだろ」
そう。いざ行動を起こすとなれば普段の気楽さは鳴りを潜め、驚くほど無駄無く動くのが将臣だ。咄嗟の判断力と、それを成し遂げようとする気概。自分の力量も、それを活かす術も心得ていて、何より――勘が良い、とでも言えば良いのだろうか?ここぞ、というタイミングを逃さない。それは、一瞬の判断が生死を分かつ戦場に於いて大きな意味を持つ。何しろ大部分の人間ならば積み重ねた経験を元に選ぶしかない決断を天性の勘で弾き出して来た結果が、今の将臣自身なのだから。
「事が起こった時に考えたんじゃ、間に合わない場合もあるからね」
将臣が参戦するとなったばかりの頃は、いつ大怪我を負うか、生きて戻って来るのだろうかとヒヤヒヤしていた。それが勝ち戦になると知っていても、身の安全が保障された戦など無いと知っていたから。でも――将臣は大した怪我もしないまま、これまで何度かの戦を乗り越えて来た。
「そういうもんか?けど……いや。ま、生きてりゃ何とかなるだろ」
珍しく神妙な顔付きで話を逸らしたのは何故なのか。それを問おうとしたのと、私達を率いている経正が話し掛けてきたのは同時だった。
◆◇◆◇◆
「羅刹殿、少し宜しいですか?」
何か言いたそうに口を開き掛けただが、経正の声が聞こえた途端に前を向く。それまでの表情は消して、武将としての顔で。何かあったのかと聞けば、どこか決意染みた表情で告げられたのは――。当然とはいえ、嬉しくない状況だった。
「此度の戦では、恐らく苦戦を強いられる事になるでしょう」
俺達が何者なのかを知ってて、それでも普通に接して来る人間は少ない。それが立場のある人間ともなれば、尚更だ。その中でも経正は珍しい穏健派だからだろう、それなりに話の出来る奴だった。こうして話し掛けられても、何も意識しないで返事を返せたんだが――。
「そうだろうな」
戦況は芳しくなかった。だが、それは京を出る前から聞いてた事だ。それに俺は――、俺達は、この戦がどうなるかを知ってる。ま、素直に負けてやるつもりは更々無いけどな。
「経正、……何か命が下ったのでは?」
「……はい」
が一瞬口篭ったのは、多分、惟盛の事が関係してるからだろう。経正が言い難そうにしてるって事は、惟盛絡みの伝達だからだろうって事ぐらい、嫌でも見当が付く。戦ってのはそれだけで充分危険だっていうのに、この先で俺達を待ってるのは負け戦だ。だからこそ、こんな命令が下るんだろうが……。
「判った、兵は必要無い。けど――そうだな、槍が欲しい」
「おい、まさか一人で」
「こういうのは独りの方が都合良いんだよ。経正、重衡の隊は?」
「遅れは無いようですから、恐らく半日ほど先かと」
その直後。黙って命令に従うのが当然だと言わんばかりに、は隊を離れた。それがどれだけ危険な事だか知らないわけじゃねえってのに、一人で。ああ言ってた以上、追いかけても無駄なのは判ってる。だが――。それでも後を追おうとした俺を止めたのは、やけに真剣な目をした経正だった。
「追ってはなりません、将臣殿」
「何でだよ?邪魔するな!」
「京を発つ以前、羅刹殿から頼まれたのです」
またか。という思いと、どうしてなんだという思いが湧き上がる。あいつは、いつもそうだ。何をするにも人を遠ざけて、一人で突っ走る。諭すように話す経正の声を聞きながら、俺はただ、手綱を握り締める事しか出来なかった。
◆◇◆◇◆
隊を離れ、暮れ始めた山道を直走る。普通は夜を前に馬を駆るなんて事は有り得ないだろうし、出来れば私も遠慮したい所だけれど。迅雷や疾風を使えるなら話は別だった。二頭の兄弟馬は、本来臆病な性質を持つ馬とは思えないほど怖気知らずで利口な上に、スタミナも申し分無い。足の速さでは疾風に多少劣るものの、迅雷の瞬間的な挙動の正確さは名馬と呼ぶに相応かった。気性が荒く乗り手を選ぶという点さえ除けば、だけれど。
「お前にも、また活躍して貰うからね」
身体を起こして速度を緩め、鬣を撫でながら呟いた頃。辺りは闇に包まれ、月明かりしか頼るものがなくなっていた。このまま行けば、明け方には重衡の率いる隊に追い付けるだろう。そこで槍を借り、陽が昇り切るまで迅雷を休ませよう。それから猿ヶ馬場を目指せば良い。その後は――いつも通り。先行している斥候部隊と合流して伏兵を殲滅し、本隊が到着するのを待て。それが兄上の命なのだから。
「あまり荒れなきゃ良いけど」
夜空を見詰めて呟いたのは……そこに流れる薄雲が齎す天候の事でもあり、この先の戦況の事でもある。そして、有無を言わさず突き放して来た将臣の事でもあり、私に命じた兄上の事でもあった。

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確認してみてビックリ!一年以上振りの更新とは、いやはや。
「桜散る」一本に絞っているとはいえ、他も少しは更新しないとなぁ。
とか言っても、今では中々時間が取れないのが悩みの種だったり…。
橘朋美
FileNo.020 2011/8/10
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