いのちのことばー南御堂掲示板からー
1987年真宗大谷派大阪教区教化センター主幹 本多 恵 師 著
1994.10.25.難波別院発行
 
 いのち萌え 枯葉となりて 帰る大地かな
       
 全てのものは、母なる大地より誕生して生涯を全うし、ついに大地に帰る。人間もまた例外ではない。生まれた人間は必ず死ぬ。火葬にしても土葬にしても水葬にしても、最後には大地に同化していくゆく。
 草木が萌え生ずるも、秋に枯れ葉となるのも、また人間が生まれて生きて死ぬのも、生命の営みである。万物は生命あるからして生まれ、生命あるからして死して大地に帰ってゆく。
 しからば、その生命はどこから来て、どこに帰るのであろうか・・・。

  どこへ行くのですか 人生の旅路 
 旅行は楽しい。家族に見送られて元気に出発した。四泊五日の豪華なハワイ旅行は、考えただけでも胸がはずむ。やがて両手に持ちきれないお土産を持って、首を長くして待つ家族のもとに帰る。家族の笑顔を見るのもまた格別である。
 人生という「旅」、どこから出発したんだろう。どこへ行こうとしているんだろう。何を土産に、どこへ帰るんだろう。私を誰が待っていてくれるんだろう。極楽の仏様か、地獄のえん魔さまか。地獄、極楽がないとすれば、思いあたるのは、お墓の中。
 考えている間も、人生の特急列車は走り続け、スピードを上げる。
 
 いずこより 我呼ぶ声ぞ 秋の暮 ー句仏上人ー
 秋はとくに、ものを思わせる季節である。何かしら人恋しくなるほどに、うら悲しさを感ぜしめられるのが、秋の夕暮れである。そよ吹く風に、夕やみをついて渡ってくる秋の香り。かすかに落ち葉の音にも生命のはかなさが響いてくる。夏の暑さも今や思い出のかなたに薄れゆき、冬の冷たさをふと感ずるとき、かすかではあるが、ほの暖かい響きを持って聞こえてくる。
 生命がいのちを呼ぶ声。そしていのちが生命に応答する声。その声は私に生命あることを実感せしめる。
 
 何急ぐ なぜ急ぐ 死を問わず 
 人、人、人。満員電車の人込みの中に入りて人を見ず。人込みを出て始めて人を見る。人、人に人を問う。人答えず。人、また人を知らず。
 人はみな、生まれて、生きて、死ぬ。人、なぜに生まれたかを知らず、いかに生きるべきかを問いつつも、なぜに生きているかを問われ、構築された理想は崩壊する。生きてあるは偶然、死は必然。されど人は思う。生は必然、死は偶然と。昨日死んでいても不思議でない私が、今いきていることの不思議。
 人は必然する死を忘れて今を生きる。されど、死は一刻たりとも私を忘れてはくれない。
  
 
人は昨日に こだわり 明日を夢見て 今日を忘れる
 中国の伝説に貘(ばく)、混沌(こんとん)という生き物があったという。夢を喰うて生きる貘は、鼻は象、目は犀(さい)、尾は牛、足は虎、体形は熊に似ている。夢のみを喰って生きるがゆえに実体が定かでない。混沌は耳、目、口、鼻の七孔が無い、いわばノッペラボウである。哀れに思うた神様が七日間かかって目鼻等を付けてやった。その途端に死んでしまったそうである。
 人は今を忘れ、自身の事実が見えないから生きておられるのかも知れない。しかし、現事実が認識され、そこからの出発がない限り、真の救いはない。
 
 
鬼は外 福は内 私の身勝手が豆をまく
 人はみな幸福を求めて生きている。地位財産名誉そして健康美ぼう体力という名の幸福をかぎりなく求めて、止まることを知らない。そのための精進努力する感情は三分の一。あとの三分の二は、ただ待つだけ。内訳は、他人の失敗と、幸福の女神の微笑。
 思いどおりにならないと、鬼のせいにして追いはらう。他人のところへ鬼がころがり込んでも、一向にかまわないというのだろうか。その根性が「鬼」であることも知らぬげに・・・。「それだけが、お前の人生か」
 
  
死ぬということがなければ 生きるという意味もない
                                          
ー金子 大栄ー
 確実に死が近づいたことを知ったとき、我われは何を考えるだろう。何をすることができるだろう。はたして、なにかを考え、何かを成そうとする意欲が湧くであろうか。
 「あと一週間のいのちだ」ということが自分に解ったとき、私は今やりつつある仕事を着実にしていられるだろうか、自信はない。ということは、今やるべきこと、今しかやることのできない大切なことを、ないがしろにしていることだ。
 死は必然。死に忘れた人は一人もいない。生は偶然。いつ死んでも不思議でない私が今生きている。
  
  
人の一生は 人との出遇いの連続である
  人多き 人のなかにも 人ぞなき
  人と成れ人 人と成せ人
 詠み人知らずの和歌であるが、身につまされる思いがする。世の中に、何が一番不足しているか。それは人間。世の中で何が一番あり余っているか。それは人間。
 人と人との出遇いによって人は人間になる。親子、夫妻、友人、同僚、等々。それらの出遇いの深さが、その人の人生の深さである。出遇いを大切にし、あたため育てるところに人生の限りない妙味がある。
 毎日顔を合わせている人との日々新鮮な出遇い、死別してもなおそ身近にその人を感ずる出遇い、それこそ仏性との出遇いである。
 
 生のみが 我等にあらず  死もまた 我等なり     ー清沢 満之ー
 誕生を祝い、死を悔やむのは人のつねである。生者必滅とことばで言うてみても生に執着し、死をいとい恐れる感情をいかんともしがたいのが、また人間である。
 春を代表する桜花は、パッと咲いて、パッと散る。御堂筋を深緑でかざり、夏の日に涼を楽しませてくれる銀杏(いちょう)並木も、やがて来る秋にはすべての葉を落とす。生命があるから花は咲き、生命があるから葉は落ちる。名残惜しく思っても、緑つきて散るところにこそ、躍動する生命を感ずる。散ることのない造花には、色彩の美はあっても生命あることのスバラシサは響いてこない。
 生の悲しみ、死の寂しさをジッとかみしめ、尊厳なる生命にめざめるところにこそ、人間としての輝きがある。
 
  
雨の日も 風の日も また悩む日も それがそのまま人生なり
 一度かぎりの人生、くりかえすことのできない人生。その人生を充実感を持って生きるか虚無感を持って生きるかは、全て自分自身の責任であろう。
 「花の生命は短くて、苦しきことのみ多かりき」と言った人がいる。喜怒哀楽の交さくする人生であるが、思いおこされることは実に苦悩に類したものが多いようである。しかし、この歌には何かしら心ひかれる響きが感じられはしないか。はかない青春の生命がかみしめた、ほろにがい甘さが感じられるようである。
 苦しみは大切にしなければならない。悩みをそまつにしてはならない。雨にも風にも嵐にも、それぞれかけがえのない妙味がある。森羅万象、全てが私の人生を輝かす活性剤である。
                      えにし                        ほとけ
   
亡き父母を 縁に出遇う無量の寿仏
 毎年お盆がやってくると、今は亡き父母、または友人がしみじみと思い偲(しの)ばれる。どこに居られるのか定かではないが、ことのほか身近かに感じられるのも人情の妙である。
 亡き人びとは形なきがゆえにいたるところに現れる。母の残した一連のお数珠にも、ありありとその面影が偲ばれ、ありし日の言葉までが胸にひびいてくる。
 親は仏の影だとも教えられる。共に語り合う親もさることながら、今は亡き親は生前より以上に身近かにあって、時には励まし、時には「おまえ、それでいいのか」と怠情に流れようとする生きざまを戒められる。
 縁を御縁といただかれ、影をお陰さまと拝まれるところに、御仏(みほとけ)の息吹を感ずる。
  
  
念仏者は 無碍の一道なり  ー歎異抄 
 お金にたよれば、お金によって苦しめられる。人にたよれば、人にそくばくされる。神や仏にたよれば、神や仏に呪ばくされる。
 大切にすることと、たよることとは違う。大切にすることは、そのものの尊さに気づき尊敬することである。たよる心はそのものを利用して、自分の欲を満たし、都合よくいこうとする心の現れである。だから、思いどおりにならないと腹が立ち、相手を憎むことにもなり、自身も苦悩することになる。
 真の解放は独立である。依頼心は人間を卑屈にする。